芭蕉と曾良 場所・山形県山形市山寺 設置・芭蕉昭和47年、曾良平成元年 「奥の細道」 立石寺 山形領に立石寺と云山寺あり。 慈覚大師の開基にして、ことに清閑の地也。 一見すべきよし、人々の勧むるに依りて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかり也。 日いまだ暮れず。 麓の坊に宿借りおきて、山上の堂にのぼる。 岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏年旧(しょうはくとしより)、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉て物の音聞こえず。 岸をめぐり、岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ。 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 ![]() セミはセミ、岩は岩でいい 芭蕉が山寺でよんだ句について、 斎藤茂吉と小宮豊隆との間に、セミはアブラゼミかニイニイゼミかという論争が起こったことがある。 ほかに、井泉水はヒグラシと想像している人もいる。 故志田義秀はセミは一匹に限るという説もある。 セミが問題なら岩も問題で、 豊隆は凝灰岩であればこそ「しみ入る」と感じられる。 わたしの説は---そんなせんさくは抜きにして、この作品を文字どおりに受けとればよいと思っている。 「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行 ![]() 立石寺 清風が用意した馬に乗って旅の予定になかった立石寺へ出立したのは5月27日、午前8時ごろであった。 参道は昼なお暗く、夏場といえども冷風に身を包まれる。 岩場の窪んだ道が延々と谷間に続く。 まさに600年の歴史の中に人間の持つ哀しい性を感じさせられる。 「おくのほそ道」を行く 朝日新聞社 1989年発行 撮影日・2019年6月29日 |
芭蕉と曾良 場所・山形県最上郡最上町堺田59-3 旧有路家住宅 (通称「封人の家」) 高校生の時、古文の授業で習ったが、ずいぶん山中のイメージをもった。 蚤虱 馬の尿する 枕もと その家に来てみると、今は国道に面した明るい感じの場所だった。 ![]() 「芭蕉物語」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行 堺田に着いた時は、もうとっぷり日が暮れていた。 国境を守る番人の家を訪ねて、一夜の宿を乞うた。 有路家は庄屋だけあって、決してむさくるしい家ではなかった。 入口が土間で、その右に馬屋があり、左側が勝手口の板の間、居間、中の間、奥の間というように部屋が続いていた。 高地なので蚊の心配はなかったが、蚤や虱の多いのには閉口した。 それに馬が同じ屋根の下に同居しているので、時々放尿する音がしゃあしゃあと聞こえてくる。 耳馴れないことなので、いささか驚いてしまった。 ![]() 撮影日・2019年6月30日 |
最上義光騎馬像 場所・山形県山形市霞城町 義光は家康の気を引くため、徳川家の臣になっていた次男に家督を譲り、長男を殺害した。 義光の死後これが原因となって家中がみだれ、孫のとき最上家はとりつぶしとなったのである。 【最上義光】 出羽山形城主。 足利氏の一族斯波兼頼の子孫で、義光は11代目。 朝鮮の役の時は、肥前名護屋城に家康とともに駐在した。 関ケ原役後山形57万石となる。 慶長19年(1614)没す。69歳。 戦国武将100話」 桑田忠親 立風書房 1978年発行 ![]() 日本の城下町2東北(二)1981 ぎょうせい 山形市 山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。 最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。 あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。 義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。 山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、 西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。 返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。 最上川水運がととのったのは寛文(1596〜1673)にかけてである。 京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。 紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。 農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。 享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。 そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。 明治初年、化学染料が輸入され出した。 ![]() 撮影日・2019年6月30日 |
xxxx像 場所・山形県xx市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
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作成・2021年10月8日 追記・2021年10月19日