銅像の人  広島県福山市
 

五浦釣人(岡倉天心) 

場所・広島県福山市 JR福山駅前  〜五浦釣人(ごほちょうじん)〜
平櫛田中 1975年


福山市民から「つりびと」とか「つりびとぞう」と呼ばれ親しまれている、平櫛田中作の「五浦釣人」像。
最初は駅の真ん前に置かれていたが、何度か移動した。
今は駅前というより駅西の感じだが、それでも駅前での待ち合わせ、となると「つりびと」となる。








「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行

作者平櫛田中が師と仰ぐ岡倉天心が、五浦海岸で釣にひと時を托す姿を写したもの。







「歴史よもやま話下」 池島信平編  文春文庫 1982年発行

岡倉天心

天心の父は越前福井の藩士でした。
16歳で東京帝国大学文科大学に入学し、
当時東大の外人講師だったフェノロサは、哲学、政治学なんか教えていました。
卒論を2週間で美術論をデッチあげた。
このことが、後年の天心の人生コースをきめる機縁になりました。

天心は英語がよくでき、フェノロサの通訳を兼ねていました。
フェノロサは日本美術が新鮮で、物珍しさもあり、もう一度日本美術を見直そうと・・。

『日本美術史』で、若き天心とフェノロサが法隆寺の夢殿の秘伝を開いたときの記述、
秘伝を開けたらにおっていて、そこからヘビや鼠がいっぱいでてきた。
ひとつひとつ巻物をはがしていった。


明治22年美術学校を開設する、数えで28歳。
日本画と木彫りでスタートした。
美術学校を追われ「日本美術院」を建てる。

今度は茨城県五浦、海岸の小さな別荘へ引っ込む。
そうすると弟子の、
横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山、こうゆう人たちが先生を慕って、海辺の小さな村に皆行って、
天心の教育に従い、絵を描いた。
日本文化史上、五浦時代という。

明治34年インド旅行。詩人タゴールと意気投合。
インドの青年向けに「東洋の理想」を出版。
民族意識に燃えてきた青年の心を引き立てた。
戦争中、日本語に訳され、それがずいぶん売れた。
「アジアは一つ」というキャッチフレーズが「大東亜共栄圏」の構想に悪用された。
一面では、軍国主義に利用される要素が,天心のナショナリズムの思想の中にあったのも事実でしょう。

ボストンに半年、日本に半年住むようになる。
天心の本で一番売れたのは「茶の本」、6〜7ヶ国語に訳されています。









撮影日・2011年5月14日


 


阿部正弘 


場所・福山市丸之内   福山城公園



日米和親条約

安政元年、ペリーは再び軍艦を率いて日本へ乗り込んできた。

今度は本当に戦争をする気で乗り込んできています。
江戸湾奥深くまで侵入してきて、江戸城が見えるあたりまで船をすすめたと記録にあります。
品川沖までやってきて挑発する。
ボートを降ろして測量をする。
その沿岸には彦根藩、肥後藩、長州藩など幕府の命令で出兵し、軍艦の挙動を見守っておる。
これはいよいよ戦争だということになる。
この時のあわてぶりは大変なものです。
沿岸の住民は家財道具を積み込み、山の方へ避難したと当時の日記には書いてあります。


幕府の方では戦争する気はない。
日米和親条約が結ばれるわけです。
「アメリカ合衆国と帝国日本両国の人民誠実不朽の親睦を結び、親睦を旨とし、・・・勅諭を信じて双方左の通りに候」

幕府は日本君主となっている。
勅諭のくだりは、たぶん降りるものという前提がある。
まことに機敏のある表現です。
君主といえども、勅諭が出ないと勝手に条約を結ぶことはできないと、勝手に決めている。
これは一つには、幕府は逃げている。
責任を持ちたくない。
国内に強硬派の攘夷論がある。
和げる表現をとったと思われます。

伊豆下田と松前地函館が、およそ7里の内は自由に徘徊可能と決まった。
幕府にとって、外国との条約締結などは初めての出来事で、かなり慎重であった。


将軍家に反対する意見でも聞いてやるからと、老中阿部正弘の名前で出しています。
諸藩から集まった意見書を見てみますと、
外国と交通をせよというのはほとんどないですね。
やはり、これまでどおり幕府の祖法を守って鎖国の体制を続けていけという意見が圧倒的です。

阿部正弘というのは意見を大変よく聞いた人です。
残念なことに、安政4年、39歳の若さ早死にしますけれども、
ずっと生きていたなら世の中の動きも変わっていますよ。
これだけ人望のある人はいなくて、
この人が老中首座でおる限りは、誰もちょっと手が出せない。
それに島津斉彬がこの人を助けていますからね、
島津斉彬は当時、賢君中の賢君で一番人望もあり、才能もあった。


阿部正弘としては、国内の意見が一つにならなかったら、日本の国はアメリカやイギリスやフランスなどの列強の圧力には対抗できんと考えて、
あえて前例を犯して意見を聞いたのです。
当時としては、彼の頭は非常に進んでいるわけですよ。
朝廷にも意見を求め、朝廷を含めた挙国一致で対処しようとしたのです。


「歴史に学ぶ」  奈良本辰也  潮文庫  昭和60年発行







「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

老中・阿部正弘の福山藩の藩政改革

安政2年、藩校・誠之館を開校。
そこでは漢学・国学・洋学・医学・軍法など、時勢に対応した科目が教えられた。
試験の成績に応じて役職に就かせるという「仕進法」が採用された。
従来の世襲的な人事を大きく変革することを試みたのである。

それと同時に西洋式の軍隊訓練を導入し、城下に大砲鋳造所を設けた。
安政4年、阿部が39歳という若さで病没したことでその勢いを失った。







阿部正弘

阿部伊勢守正弘は、文政2年(1819)10月、江戸西の丸下の福山藩邸で生まれた。
父正精は当時老中、母は側室。6番目の男子であるから、生涯部屋住みで終わる可能性もあったが、
天保7年(1836)正弘が第10代の藩主となった。
天保9年、福井藩主の次女を娶った。
天保11年、寺社奉行。
天保14年。老中。わずか25歳。
翌、弘化元年に老中首座となった。

最初の問題は、水野忠邦の天保の改革の手直しである。

正弘の老中在任は15年間にわたったが。この間、幕府にとっても彼にとっても最も困難な課題は、
開港問題の処理であった。
弘化元年、オランダ王は幕府に親書を寄せ、阿片戦争による清国事情を詳細に述べ、日本も速やかに鎖国を改める忠告をした。


「城と街道」 南條範夫 中公文庫 昭和56年発行






撮影日・2021年10月5日

 
 


菅茶山 


場所・広島県福山市神辺町湯野 「菅茶山記念館」



「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

菅茶山

同時代の学者・文化人から「当代一等の詩人」と評された菅茶山。
出自は農民身分ながら、寛政の改革を行った松平定信の別邸に招かれるなど、当時の人々から多大な尊敬を集めた人物である。

茶山は1748年備後国安那郡北川村で生まれた。
実家は農業とともに酒造業を営む裕福な家庭で、父は俳諧をたしなむ人物だった。
父の影響もあり、茶山は俳諧を学ぶようになると、和歌や漢詩にも興味を持ち始め、やがて本格的に学問に志すようになる。
19歳の時から京都・大坂に遊学。
当時一流の学者・文化人らと交流を深め、1781年頃には、神辺に私塾を開いて村の子供たちに学問を教え始めた。
この私塾は後に福山藩にう献上されて藩の郷塾となり、「廉塾(れんじゅく)」という名で全国に知られるようになる。
茶山は遊学中からその詩才が高く評価され、1812年には詩集「黄葉夕陽村舎詩」を刊行するや、これがベストセラーになり、
冒頭の「当代一等の詩人」の地位を確立する。
当時の神辺には、茶山を慕って全国各地から学者・文化人・生徒らが訪れたという。








「広島県の歴史」 山川出版社 1999年発行

菅茶山と廉塾

茶山は折から武士教育の重要性を認識した福山藩からたびたび儒員として登用する意向を伝えられ、扶持米をあたえられたが
官にはつかえず生涯神辺の地にあって民衆教育に専念した。
塾の私物化をさけ、その永続をはかった。

茶山の塾はしだいに有名なものとなり、
備後地方はもとより、中国・四国・九州・近畿さらには奥羽地方からも学生が遊学してきた。
その出自は武士から医者・僧侶・豪農商の子弟など330余人にのぼっている。
寛政から化政期にかけて、茶山はわが国第一等の詩人と称された。

親友頼春水の子山陽が、茶山の後継者として廉塾にきたのは文化6年(1809)のことであった。
しかし山陽は不行跡をして茶山を困らせ、結局1年余りで京都へ行ってしまう。
茶山の教育方針にもっとも反する人物であった。

茶山は廉塾の経営安定に心をくばった。
塾生がおさめる授業料はすべてたくわえて塾田をふやしていった。
塾田は茶山没後には171石になっている。

茶山没後、廉塾は甥の子である管三が継ぎ、明治維新まで存続した。




撮影日・2019年3月1日



 
 


宮城道雄 


広島県福山市鞆町  鞆城跡


”春の海”はラジオなどで聴くことがあった。
宮城道雄という目の不自由な人が鞆の海で作った、という話は子どもの頃からよく耳にしていた。

琴と笛が調和して、いかにも鞆の浦、さらに瀬戸内海のイメージがぐんぐん広がっていく。
いつ聞いても、これ以上ない和風の名曲だと思える。





(Wikipedia)

宮城道雄

別名 中菅道雄、宮城検校
出身地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市
ジャンル 箏曲
職業 作曲家・箏曲家
担当楽器 箏

宮城 道雄(みやぎ みちお〈明治27年4月7日 - 昭和31年6月25日)は、日本の作曲家・箏曲家である。
兵庫県神戸市生まれ。。十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。
『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。
作家の内田百閧ニは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。










撮影日・2020年9月14日


 
 

日像と一条兄弟像

場所・広島県福山市南町  妙法寺



この銅像は、福山のバラ公園近くの妙法寺にある。




(Wikipedia)

日像にちぞう(1269―1342)
鎌倉末〜南北朝時代の日蓮宗の僧。
下総の人。 日蓮の孫弟子で肥後阿闍梨(ひごあじゃり)と号し、日蓮宗が京都に進出する端緒を開いた。
7歳のとき日朗(にちろう)に従って出家し、身延に隠棲した日蓮のもとで修学す.


一条兄弟はよくわからない。
刀鍛冶師で、熱心な日蓮宗徒だったのだろうか。






撮影日・2015年5月15日












作成・2021年10月10日 追記・2021年12月19日