柴田勝家像 場所・福井県福井市中央 北ノ庄城跡 建立・1967年(昭和42年) 柴田勝家像 「鬼」と呼ばれた猛将 織田信長の筆頭家老。 無骨な性格で武勇に秀でたため「鬼柴田」と呼ばれる。 水瓶を割って背水の陣で出撃して敵を打ち破った逸話から 「瓶割柴田」の異名ももつ。 「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行 ![]() 柴田勝家 通称権六。修理亮(しゅりのすけ)。 織田家筆頭の老臣で、天正3年(1575)9月信長の越前一向一揆討伐後、越前国主となる。 本能寺の変のときは、越後の上杉景勝にあたっていた。 賤ケ嶽の合戦で敗れて居城北ノ庄で自害した時は62歳で、妻のお市の方は37歳であった。 墓は、福井市左内町の西光寺にある。 剛直ひとすじの武将である。 織田信長の死後、その跡目をめぐり、秀吉とはげしい主導権争いを演じて敗れた。 民政家としては、 一向一揆を討伐して越前北ノ庄城主となった勝家は、 刀狩りを断行し、農民の武器をすべてとりあげたが、 これを農機具に鋳なおして、また農民に与えている。 国中から48艘の船を集め、これを鎖でつないで橋にした。 織田家の跡目を決める清洲会議で、勝家は信長の三男信孝を推したが、 丹羽長秀を味方につけた秀吉が成功した。 そのかわり、当時絶世の美女と謳われた信長の妹お市の方を妻にむかえたのである。 賤ケ岳の合戦で敗れ北ノ庄で自害、62歳であった。 「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行 撮影日・2015年8月3日 |
お市の方像 場所・福井県福井市中央 北ノ庄城跡 製造・2001年(平成13年) 織田信長の家系は容姿が優れていたのだろうな、みな。 お市の方も、美人・悲劇・血筋を残し、名を歴史に残した。 お市の方 お市の方の肖像画が、いまも高野山持明院に所蔵されているが、 さすがに戦国一の美女の面影をうかがわせるものがある。 お市の方は薄幸の運命に翻弄された女性だった。 はじめ近江の浅井長政にとついで三女二男を生んだが、夫と長男は信長に殺害された。 北ノ庄城の最後。 勝家は再三、お市の方に退城をすすめた。 しかしお市の方は最後まで首をたてにふらず、夫と運命をともにすることを誓い、 辞世をよんだ。お市の方は37歳であった。 さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 夢路をさそうほととぎすかな 「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行 ![]() 「歴史と旅」 昭和52年9月号 秋田書店 戦国三美人 お市の方・ガラシャ・勝頼夫人 来水明子 ひたむきな母性愛---お市の方 お市の方は、おそらく10代後半の年齢で、浅井長政のもとに嫁ぎ、 天正元年9月の小谷落城まで、足掛け7年の歳月を浅井家に過ごして、長政との間に数人の子女をもうけた。 夫の長政が自刃を遂げたあと実家に戻って寡居すること10年、 本能寺の変のとしの天正10年(1582)の8,9月頃に、 信長死後の勢力分野再調整の一環として、柴田勝家と再婚し、 翌天正11年4月24日、越前北ノ庄城で勝家とともに世を去った。 つまりお市の方が勝家夫人であったのは正味8ヶ月ばかり、一年にも足らぬ期間のことで、もちろん勝家とのあいだには子もなかった。 勝家の方は彼女との再婚のとき、すでに老齢に近かった。 三人の姉妹は、北ヶ庄城落城の時はすでに15.16から11.12までの少女となっていた。 婚期の早かった当時にあっては、三人とも、もうそろそろ母のもとを離れる年齢だったといっていい。 最初の婚家の浅井家は亡びてあとかたもなく、 柴田家は今や滅亡の寸前、 実家の織田家は甥たちが四分五裂のありさま。 お市の方は無常感をつよく誘われる点もあったはずである。 さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそうほととぎすかな お市の方の辞世として諸書が伝える歌である。 撮影日・撮影日・2015年8月3日 |
浅井三姉妹像 場所・福井県福井市中央 北ノ庄城跡 製造・2010年(平成22年) 浅尾三姉妹は、織田・豊臣・徳川すべてに婚姻関係があり、 格好の時代小説素材で、主人公でも脇役でも、小説やドラマや大河ドラマに何度も登場している。 ![]() 「日本史探訪10」 角川文庫 昭和58年発行 お市の方と淀殿 戦国の世に散った美貌の母娘 永井路子 杉本苑子 お市と長政の間に生まれた娘お茶茶が、のちの関白秀吉の妻淀殿となる。 戦国の男たちの政争にまきこまれ、波瀾に満ちたこの母と子、お市と淀殿の生涯。 永井 政略結婚は、ある意味では自分の家、または国を背負って外国へ行くということです。 要するに外交官です。 女性大使として、相手の機嫌を損じないように、実家の不利にならないように、そして両家の間に戦争が起こらないように。 それに妻としての勤めが加わる。それが大名社会の結婚だった。 ばかではとても勤まりません。 できの悪い娘は身内や家来にやってしまうんです。 杉本 小谷城が落城したとき三人の娘と二人の息子がいました。 お市の再婚 天正11年、勝家62才、お市36才で猛火に包まれて消えた。 淀殿 23歳になった茶茶は、秀吉の最初の男の子を生み、山城の国淀城を与えられて、淀殿と称せられた。 この長男は死ぬが、すぐ次の男子を生んだ、のちの秀頼である。 跡継ぎのなかった秀吉は、これを熱愛した。 その愛を背景に淀殿は第一の権力を誇り、その勢いは正妻北政所をしのぐばかりであった。 秀吉が慶長3年(1598)、62歳で死んだとき残された淀殿は32歳、一人っ子秀頼は6歳になっていた。 遺言に従い、淀殿と秀頼は大坂城にはいり、正妻北政所は出て尼となった。 関ケ原の合戦後、家康は征夷大将軍になり、次々に淀殿に対する懐柔策を打ってゆく。 11歳の秀頼を内大臣に任じ、 みずからの孫娘で、淀殿の姪でもある千姫を秀頼に嫁がせ、 その翌年には太閤秀吉を弔う豊国祭りを大々的に行った。 元和元年(1615)大坂夏の陣 天下の名城はついに落ちた。 秀頼23歳、淀殿49歳。 淀殿は、わが子に命をかけ、わが子の運命とともに破滅した。 (Wikipedia) 初(常高院) 京極高次の正室として京極家に入った。 京極家は、室町幕府の侍所の長官を世襲した四職の家門であり、出雲国・隠岐国・飛騨国などの守護を兼ねた名門の武家であった。 京極家はまた北近江の元の領主であり、浅井家の主筋でもあった。 初は三姉妹の中で最も格上の武家に嫁いだとも言えるが、当時の京極家は下克上により衰退し、浅井家や、後には羽柴家の庇護を受けていた。 また、高次の母(京極マリア)は浅井長政の姉であり、高次と初は従兄妹の間柄であった。 夫・高次は関ヶ原の戦いに先立って近江大津城で西軍の軍勢を足止め(大津城の戦い)した功により、若狭一国を与えられて小浜藩主となった。 高次に先立たれた後、初は出家して常高院と名乗る。 大坂の陣の際には、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介に奔走した。 夫を支え、衰退した京極家を大名家として再興させ、三姉妹の中では一番多く落城(小谷城、北ノ庄城、大津城、大坂城)を経験している。 江(崇源院) 織田政権下における尾張知多郡の国衆佐治一成(母は市の姉・お犬の方)、豊臣政権下における秀吉の養子(甥)豊臣秀勝との婚姻の後、 家康の嫡男で後に徳川2代将軍となる徳川秀忠の妻(御台所)となり、徳川将軍家に正室として嫁ぐこととなった。 3代将軍徳川家光や中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)となり、明正天皇の生母)たちを産む。 自らの子孫を後代に残せなかった姉2人とは対照的に、多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の明仁上皇・今上天皇・悠仁親王にまで続いている。。 撮影日・2015年8月3日 |
松平春嶽像 場所・福井県 福井市 宝永3丁目 製造・2007年(平成19年) ![]() 「英傑の日本史」 井沢元彦 角川学芸出版 平成22年発行 松平春嶽 当時もっとも優秀な大名の一人であった松平春嶽。 越前福井藩主であった春嶽は、かつて一橋慶喜を将軍にしようと動いたが、 大老井伊直弼の反撃にあって隠居に追い込まれた。 しかし、 直弼が桜田門の変によって暗殺されたおとで息を吹き返し、この年、幕府の政治総裁職という新しい職に就いた。 ちなみにこの時、一橋慶喜は将軍後見職となっている。 いわば幕閣では将軍家茂、慶喜に次ぐナンバー3ともいえた。 この春嶽という人は、幕末四賢侯、つまり四人の名君の一人に数えられるほど優秀な人物であった。 もともとは攘夷論者であったが、多くの人々の意見を聞くうちに、その考えを改めた。 そして、熊本藩士の横井小楠を政治顧問に迎えた。 ![]() 【福井県観光連盟】 明君誕生 1828(文政11)年、春嶽は徳川御三卿である田安家三代斉匡の六男として江戸に生まれました。 11歳で越前松平家の養子となり、藩主に就任。 1843(天保14)年、16歳の時に初入国すると当時90万両もの負債を抱え疲弊していた藩政の立て直しに着手。 遠く熊本から横井小楠を政治顧問として招き、藩医の橋本左内や下級武士であった由利公正(当時は光岡八郎)などを登用して改革を進めました。 混乱する幕政の中で 1853(嘉永6)年、黒船来航。国内が動揺する中で春嶽は早くから開国論を主張し、薩摩や土佐など雄藩の大名とともに国政にも積極的に参画するようになります。 しかし、当時幕府が直面していた将軍継嗣問題に当たって、大老の井伊直弼らと対立。 政争に敗れ隠居謹慎の処罰を受けることとなります。 再び国政の表舞台へ しかし1860(万延元)年、「桜田門外の変」で井伊大老が暗殺されると、春嶽も罪を許され、 新設された政治総裁職、いわば総理大臣の地位へと一気に駆け上がります。 春嶽は京都守護職を設置し会津藩主・松平容保をその任に充てたほか、皇女和宮の降嫁、将軍・徳川家茂の上洛など、公武合体政策を推進しました。 新生日本のために 明治維新政府の中でも要職を歴任しましたが、1870(明治3)年に一切の官職を辞して晩年は文筆活動に専念。 そして1890(明治23)年、激動の時代の最前線で奮闘を続けた偉大なリーダーは、63歳で静かにこの世を去ったのです。 撮影日・2015年8月3日 |
作成・2021年10月8日 追記・2021年10月19日