静岡県 |
貫一お宮像 場所・静岡県熱海市 館野弘青 1976年 貫一お宮之像 明治30年から新聞に連載された尾崎紅葉作「金色夜叉」の主人公。 演劇・映画・流行歌にとりあげられ大ヒットとなった。 追いかけて許しを乞うお宮を貫一がけりとばす熱海での場面が有名。 「日本の銅像」 金子治夫 淡交社 2012年発行 森繁久彌が元気なころ、「金色夜叉」をテレビで歌っていた。 ♪熱海の海岸 散歩する 貫一お宮の 二人連れ 共に歩むも 今日限り 共に語るも 今日限り JR熱海駅で降りて、坂道を下って海岸線までいくと、そこに像は建っていた。 この像には衝撃を受けた。 暴力そのものだ。 今でいう、DVなんてものではない。 下駄で座った女性を強打している。 文学作品を銅像にしたというイメージがぶっ飛んでいった。 男性の怒りを像で表現した、というならいくらかわかる。 しかし、数少ない明治のエリート高校生がこうゆう犯罪のような暴行はしない。 歌詞のように気持ちにとどめる。 〽 宮さん必ず 来年の 今月今夜 この月は 僕の涙で くもらして 見せるよ男子 意気地 〽 ダイヤモンドに 目がくれて 乗ってはならぬ 玉の輿 人は身持が 第一よ お金はこの世の まわり物 まあびっくりした銅像だった。 撮影日・2015年7月8日 |
清水次郎長 場所・静岡県静岡市清水区美濃輪町 次郎長生家 子供のころから、清水次郎長はヒーローだったな。 子分の森の石松もそうだ。 映画に、漫画に、パッチンに登場していた。 ラジオからは広沢虎造の次郎長伝や、 流行歌「旅姿三人男」が流れていた。 (Wikipedia) 清水 次郎長 清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。 本名、山本 長五郎米問屋山本次郎八の養子。 養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造の浪曲(ラジオ放送、レコード)、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。 戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸(榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦)の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した幕臣の山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した。 撮影日・2014年10月8日 |
波小僧 場所・静岡県浜松市西区舞阪町 ”舞阪の松並木” (Wikipedia) 遠州七不思議の一つ 波小僧 奈良時代の僧・行基が年老いた母の快癒を祈願して2体の藁人形を作り、災害が起きる時は必ず事前に人々へ知らせるよう言い聞かせて久留女木川(都田川の旧称)へ流した。 藁人形のうち1体は海へ流れ着き、漁師が仕掛けておいた網に引っかかる。 海から引き上げられた波小僧は漁師に命乞いをし、助けてくれれば波の音で天気を知らせると約束する。 漁師は波小僧を網から解放し、波小僧は海の向こうへ姿を消した。 こうして遠州灘の波の音は「雷三里、波千里」と呼ばれる地鳴りに似た独特の響きを持つようになり、漁師たちは波の響きが南東から聞こえれば雨、逆に南西から聞こえれば晴れと知ることが出来るようになった。 撮影日・2014年10月8日 |
xxx像 場所・静岡県xx市xx町 撮影日・xx年xx月xx日 |
作成・2021年10月8日 追記・2021年10月16日