2011年5月25日   水曜日   午前10:00頃
笠岡市拓海町













3月末に父が亡くなってから、



目の前にある季節を見ると父にこじつけて・・・ひとりでに・・・想い浮かべるようになった。





















桃の花が散ると・・・・・父は、山の桃畑で袋掛けをしていたなあ。


田んぼを見れば・・・・父は、牛を引いて田起こしをしていたなあ。


山道を歩けば・・・父は、シイタケを山の木陰に何本も立てていたなあ。




無意識なうちに父と結び付けてしまい、そして父を想い出す。












そして麦畑を見ると、・・・・・・・






父は言っていたなあ。



「あの歌とまったくいっしょじゃった」と。






(ユーチューブ・「麦と兵隊」より)











徐州徐州と人馬はすすむ





父はこの画面の中にいるのだろうか?











(ユーチューブ・「麦と兵隊」より)








図書館に寄って「火野葦平文学集」を借りた。




えいちゃんはまだ「麦と兵隊」を読んだことがなかった。




(以下・火野葦平「麦と兵隊」より)







(ユーチューブ・「麦と兵隊」より)







五月九日

烏が騒々しく鳴いて居る。表に出てみると、まだ薄暗い。兵隊は彼方此方で火を炊いて飯盒を掛けている。

銃声はしないが、幽かに砲声が聞こえる。













(ユーチューブ・「麦と兵隊」より)








五月十二日

夜明けとともに出発。相も変らぬ海のごとき麦畑の進軍である。

左右にも延々と続いた部隊が黄塵の中を進軍して行く。
























五月十五日


顔も洗わず、もとより風呂にも入らず、下衣も着換えず、髭茫々と生やし、黄塵に白粉を刷いたような顔を曝し・・・

靴を脱いで、豆でふくれ、むくんだ足を空気に当てて居る。




















五月二十日


壕の中に、支那兵の死骸が山と積まれてあった。死骸も新しく、まだ血が乾いて居ない。屍体の間に挟まっ蠢いて居るのもある。

私はこれを見て居たが、ふと、この人間の惨状に対して、しばらく痛ましいという気持を全くに感ぜずに眺めていたことに気づいた。




















父と従軍記者だった火野葦平と、徐州戦争中に遭遇したことが有ったかもしれない。


父は徐州戦後、武漢三鎮・漢口まで・・・・すべて徒歩・・・・行軍している。







つぎ・神島@A














2011年5月28日