城見村

城見の地名は、同村の大見山から西に福山城、東に笠岡城址が見えるところから名ずけられたといわれている。

この地に発達した村落は、用之江、大宣、茂平の三箇村であるが、用之江は「餅之戸」の異字といわれ、これは古代における朝廷の封戸の一つと考えられる。
なお、大宣はもと大下と書かれたものを文政六年に改めたものである。

この地域は、古くは備中国魚渚郷に属し、後陶山庄に属したが、室町時代には、大宣、用之江は高田氏、茂平は真鍋氏の所領で、天文年中伊予能島の村上氏が侵攻してからその領地になった。

慶長五年徳川氏の直轄地となり代官小堀氏の治下となった。
元和三年松山池田氏の所領となり、同五年福山水野氏の釆邑となったが、元禄十一年再び幕府直轄領となり、笠岡代官の治下にあって明治維新にいたった。

明治元年五月倉敷県に属したが、同四年十一月深津県となり、同五年三月戸籍法の施行に伴い、第一第区小三区に編入された。
同年六月深津県は小田県と改称され、明治八年十二月岡山県に合併した。

明治十年十一月区務所、戸長役場の設置により第十区務所に属し、吉浜村に設置された第二戸長役場の管轄となった。

明治十一年郡区町村編制法の施行に伴い格村に戸長が置かれたが、明治十六年2月連合戸長役場制度がとられ、用之江村に小田郡第四部戸長役場が置かれ、その管轄となった。

明治二十二年六月一日町村制の施行の際、この三箇村が合併して城見村となった。



作成・2001年5月13日