7・両国橋

さて笠岡市の中核笠岡はふるくより、吉備高原の門戸として栄えてきた。

そして明治の中期山陽線を通じ、大正初め井笠鉄道をひきいれ、一層発展をつづけるかにみえたのであるが、笠岡自体がこれとて産業基盤に恵まれず、また土地狭隘でそれを望むべくもなかったのである。


ところが戦後三十年代になって、福山地区に日本鋼管が進出することになり、また一方沿岸の干拓も難なく推進することができたのである。
干拓地はもちろん農林事業であったのであるが、その目的はいまだに達することができないままで、結局はたちまちものになりそうな鋼管の方に目がむけられているというのが正直なところであろう。
そして西辺茂平地区に、両国橋を設け、鋼管へのいわゆる橋渡しをした。
だがこの橋をどれだけ渡ってくるかが問題である。

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2001年4月29日