自治省事務次官をしていた人が、当時流行の革新を標榜県知事へ立候補し。革新系と六高・東大卒の地元財界、山陽新聞社をバックに。
それに当時自民党青嵐会の実弟加藤六月衆院議員への反発がからみ、この県知事選挙は全国的に取上げられた。
寝たきりのおばあさんをリヤカーで投票所へつれていく。
負けた。
茂平の人はみんな投票へ行った。
城見のひとはほとんど行っとる。
ウチのばあちゃんだけじゃねぇ、ほかにもようけいおった。(リヤカーなどで投票所まで連れて行く人は)
結果、笠岡市ではしばらくの間「山陽新聞不読運動」がつづいた。
翌年、武徳さんは古巣の参議院議員へ復活した。
それからまもなく福田内閣で自治大臣になった。
自治大臣当時、祖父は「子供のころ、この庭で”大臣になる”と言っていた。」という話。実現した話。選挙で負けた現知事の上になること。などが混ざり、満足げに昭和初期の武徳・六月兄弟を思いだしていたようだった。
2002年6月2日