記事・日本鋼管大径管工場 (神島市史)


笠岡湾干拓は、当初から農地と工業用地をあわせ造成する予定であった。

36年10月、福山沖に日本鋼管福山製鉄所に立地が決定し、この製鉄に関連するコンビナートは笠岡湾に立地するという構想が打ち出され、37年にはこの計画をうけて干拓内の西側に工業用地をつくろうという案ができた。

39年12月14日、加藤岡山県知事は中四国農政局長あて回答している。

「1・西側堤防には工業用地等440ヘクタールの造成を予定。

 2・工業用地造成の時期については、44年10月の日本鋼管福山工場の操業とともに、関連工場を一部操業したいので、42年度から着工されるよう、工程編成の格段のご配慮をお願いする。」


 43年5月漁業補償が解決した事もあって日本鋼管の誘致が急速にすすみ、6月岡山県庁で県知事、赤坂武日本鋼管社長、小野笠岡市長の間で誘致協定書が結ばれ、岡山県は笠岡湾干拓の西側に工場用地を造成することとなった。

誘致協定時の日本鋼管の計画は次のとおり。

【工場用地造成計画】 位置・笠岡市茂平地先
              面積・92万9000平方メートル
                  但し第一次造成(43年7月〜44年3月)20万9400平方メートル
【工場建設=当初計画】大径溶接菅工場新設
              従業員 250人 (最終400人)
               完成予定 45年3月


2000年11月1日