昭和37年(1962年)頃より、引野沖が埋め立てられ隣りの大門・野々浜はおおきく地形も変わっていった。
茂平も県境の山が崩されていきだした。
山を売るのは個人の自由あったが。
自治会からは「売ってもいいが木を切らんように。」という申しいれはしとった。
煙が来るけぃ。
売ってもえええが松やこは切らんように。
高丸やこは鋼管にだいぶ売ったけど、「木を切ったらいけんど。」という条件をつけた。
どこへ売るんでも切ったらいけん、いうことにしとった。
売り買いには自治会へ(仲介・世話)いう人(不動産屋)もおったが、それはしなかった。
個人の持ち物に後であれこれいわれても困るんで。
山を裸にだけはしてくれるな、と個人にはいうていた。
今でも高丸には昔のままの状態のところが多いが?
木が残っとるのはそのためじゃ。
山は鋼管が買い、畑は個人がそのまま今でも持っておる。
畑はまだ作っている人がおる。どうなろうに(・・・作って儲かるものがないの意)。
2002年6月23日