2000年前の骨



昭和39年の9月、両親は朝早くからイチジクをとりにいっていた。作者が高校一年の時同級生のあきぃちゃんは茂平のお宮で2000年前の人骨を発見した。
その記事は当時新聞にも載り、私も見に行った。
お宮の社から階段(石段)に行く、その石段の少し手前に地表からすぐのところに石で囲まれた人骨二体であった


笠岡市史T

笠岡市の西端、広島県境に近い瀬戸内海に面した茂平地区の、西南に延びた台地上にある茂平八幡神社で、昭和39年9月に社殿前の境内を整地中に二基の箱式石棺が発見された。

箱式石棺が発見された地は、古くは内海の入り江に少し突出した海に面した地であったと考えられる地である。
またこの地点は茂平神社境内として聖地されるに当たり、地表部はかなり削平されたと考えられはするが、現状からみて、かって石棺を覆う大き封土があった痕跡はないので、たとえあったとしてもこの石棺の封土は小さなものであったと見られる。

二基の石棺は、ともに南東〜北西に長軸を置くように平行に並び、その間隔は50センチばかりである。
二号棺と呼ぶことにした北側の石棺が一号棺と呼ぶことにした南側のそれより30センチばかり北西へずれて位置しており、両者は完全に並行しているとはいえない。
両者とも、長側には格4枚、短側には格1枚の花崗岩の平石を立てている。
蓋石は二号棺では三枚の平石が残っていたが一号棺では何も残っていなかった。
しかし状況からみて、それぞれ四枚の平石で蓋がされていたものと見てよかろう。

石棺の個々の規模を見ると、一号棺では内法の長辺が160センチ、幅は南東側で30センチ北西側で20センチ、深さは20センチを、二号棺では内法の長辺が150センチ、幅は南東側で40センチ北西側で30センチ、深さは30センチをを測り、床面のレベルは二号棺が一号棺より25センチ低い。

これら二基の石棺の位置関係からみて、両棺の被葬者は互いに関係深い人で、合前後して埋葬されたと考えられる。
なを、一号棺では、わずかに人骨の断片が検出され、二号館では、東南部で小さな平石を枕にした人骨が認められた。
島五郎教授の鑑定によると、二号館の人骨は熟年男子である。
なを、一号棺のそれは断定できないが成年男子が推定できる。
石棺に伴う出土品は何もなく、遺物による年代決定はできないが、後期にまでは下ることはないと見られる。


なを、茂平地区の東の斜面や本遺跡の西方、福山市との境界をなす丘陵上には横穴式石室古墳が数基あり、引き続く時代に、この辺りでも古墳が造られていたことを知ることができる。

作成・2001年1月28日