昭和39年11月11日、武徳さんが県知事に当選した。
この選挙は三木知事の急逝による突然の選挙で、社会党・自民党の二人の現職参議院議員が立候補した。
当時岡山県は革新県とも言われ、社会党が強かった。地元笠岡は選挙後、新聞社から「主義・政策を無視してまで地元候補者の得票が多かった。」というくらい応援をした。そういう選挙であった為、更なる地元・茂平の人がいかに武徳さんの選挙活動をしたかがわかる。作者、当時高校1年の時。2002年6月7日
(県知事になったばかりの)武徳さんが飛んで来て(用之江の旧・城見村役場まで)、「武徳さん、なんとこういう事なんで、なんとかしてくれんか。」と言うた。
「(福山市合併は)やる事でやっとるんで。」
「(そうは言っても)あんたが知事にでとるんじゃけい、なんでもかんでもヤルゆうことまでは出来ん。」
武徳さんの選挙じゃ笠岡から岡山まで運動してあるいたばっかしじゃ。
武徳さんは県知事になったばっかりで「納めてはくれんか?」というし。
「しょうがねい。あんたが(県知事に)出とるんじゃけい。
福山へ行くとは言わりゃぁせなぁ。」
言うて収まった。
2002年6月2日