笠岡市の合併


『岡山県合併史』より

第一次合併 昭和26年4月1日 笠岡町、今井村合併
第二次合併 昭和27年4月1日 笠岡・金浦両町が合併し県下4番目の市が誕生 両町とも臨時議会で満場一致で議決
第三次合併 昭和28年10月1日 近接6村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・吉田村・新山村と合併 近接2町7村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・神島外町・吉田村・新山村、浅口郡大島村・里庄町)と昭和28年10月1日を目標の基本計画であった。
大島村・里庄町は郡を異としていて時期尚早で、神島外町は赤痢発生の対に追われ参加体制とれず見送り。
第四次合併 昭和31年4月1日 神島外町・大島村・北木島町・真鍋島村・白石島村を合併 機を逸した神島外町と大島村はこれを機と合併体制を固めた。神外に連なる北木・白石・真鍋もつづいた。
なお大島村柴木が分離し寄島町に合併した。
第五次合併 昭和35年4月1日 北川村を合併 中川村が矢掛町に合併、小田町と北川村は周辺合併に取り残された。北川村は矢掛町・小田町・笠岡市への合併3案となる。一方村内は小北合併と笠岡編入の2派に分かれた。昭和31年3月6日の笠岡市への合併村議会は小北派が議会に押しかけ流会。
昭和32年笠岡市は「いったん小北合併、その後笠岡編入」案を出す。不調。岡山県知事は北川村の矢掛町への合併勧告する。勧告後村内の対立は一層深刻となり両派は議員解職・議会解散・村長解職等で対抗。村行政も麻痺状態になった。
昭和33年10月10月22日矢掛町合併を議決、村長はリコール進行中であるとして合併手続きをせず。
昭和34年2月村議会解散。改選後の議会は前議決をひるがえし笠岡市合併を議決したが村内の情勢からして実現困難。

8年間の二派の紛争も反省がみえだした。

『神島村史・合併議案の審議』によると


・・・・この当時、神島外町合併の声も上がり、内浦住民867名の神島外町合併推進の要望書が出されていた。
昭和28年9月11日午後4時臨時村議会が開かれた。
(議場には傍聴人あふれ、入りきれない村民多数が役場前に終結、審議を注視。合併反対のむしろ旗もあり)

・・・審議は結論が出ず午前4時議員個々の賛否を求めると
合併賛成 5名
さだまらず 3名
合併反対 1名

という状況で議長は採択のやむなしと考え午前6時半「満場一致で原案を可決したい。ご賛成の人は拍手をお願いいたします。」
 全員拍手。ここに満場一致で笠岡合併の原案を可決した。




『神島村史・県営フェリーボート争議』によると

瀬戸渡船は笠岡市合併後も旧神島内村民は無料として継続されていたが昭和31年に従来の手漕ぎ渡船にかわり県営フェリーボートが就航する事になった。
この県営フェリーボートは旧村民も有料とされ、市や県に無料化を陳情していたが有料運行が決行された。

これを不信とする旧村民は一致団結、県議会議員伊藤大考氏を先頭に県、市に強く抗議。これを応援する旧村民は所在の船を仕立ててムシロ旗を立て笠岡市に押しかける一幕もあった。
瀬戸に県・市の代表を招いての集団交渉には数百人の住民が鉢巻姿で集まり一糸乱れぬ交渉の姿は、さすが神島化学の労組活動で鍛えられた果実であったと、今も語り草になっている。




2000年10月09日