その頃の茂平の出産祝いは


僕の兄弟は3人で。昭和18・21・23年生まれで、生活・食料難の時であったが、その当時の出産祝いはどうだったのか?またあったのだろうか?


(父)

しょうたのおや。




(母)

あった。昔のほうがヒドかった。

生まれたら近所のAさん、Bさんかた、Cさん、Dさん。4〜5軒のウチから祝いじゃ言うて重箱に米を一升持って来てくりょうた。「ひきご」じゃゆうて。
お産した時にゃ、もち米をたべりゃあ乳がようでるようた。

そしたらおばあさんがようた「ただ米を一升貰ぅてもあやあせん、うむしをして返しゃ残らんので(重箱の中へ、うむしを)いっぱい入れらりゃあせん。」

隣りには(漁師で、米を作ってなかった。)魚を持ってきてくりょうた。
エエ魚を。
おいしかりょうた。あの時分戦争でない時じゃったので、あの魚の味は忘れられん。「おいしーなぁ。」思うて食びょうた。

ものが無ぅて、金を出しても買えん時じゃった。

いつもは雑魚じゃが、お産のときは生きもええし、魚もええし。
浜の良やんもよう持ってきてくりょうた。

そうようにしょうた。昔のほうがようしょうた。





   

2002年5月30日