毎日新聞 「おかやま20世紀 7」 岡山大空襲1945年 2000年11月30日 の記事


太平洋戦争の敗戦が濃厚になった1945年6月29日午前2時40分すぎ、米軍の爆撃機の編隊が岡山市上空に飛来した。

爆撃機は途中で爆音を消して、旭川河口方面から北西に向けて進入。

市の中心部に迫り,旋回しながら、焼夷弾の雨を降らし、悠然と北西に飛び立った。


ぐれんの炎が舞う中、市民が命からがら逃げさまよったが、ついに空襲警報は発令されなかった。
約2時間に渡る無差別空襲の末、都心部は壊滅した。

当時の市域の66%に当たる260万平方Mが焼失、市民の82%の13万1600人が被災。死者は1737人、負傷者は6000人以上に達し、全国の被災都市のうち、8番目に大きい被災となった。

2000年12月3日


山陽新聞社編「岡山のなぞ!?」平成7年発刊 岡山空襲なぜ警報は鳴らなかったか!?

当日、B29が岡山に第一弾を落としたのは午前二時四十四分。真夜中ではあったがその”前兆”はあった。四時間ほど前の午後十一時頃、紀州沖に集結するB29の大編隊を和歌山のレーダーが捕らえており、大阪に空襲警報、和歌山・兵庫・徳島の各県に警戒警報が発令された。
編隊は紀伊水道を北上した。だが電話回線の故障で各地の情報が集まらなくなり、淡路島附近で行方がつかめなくなっていた。

編隊の飛来にきずいたのは、岡山県の牛窓棒防空監視哨だった。県南一帯には二十箇所の監視哨があり、ここからの通報は県本部を通し大阪の中部軍管区司令部に集められ、同司令部が警報発令の権限を持っていた。

一番機確認から初弾投下まで四分。牛窓の情報は直ちに大阪に伝わっている。哨長正本安彦さん(故人)の手記によると何度も県本部に「警報を出せ」とと督促したが、「司令部から命令が来ない」というばかりだったという。軍の命令がすべてだった状況下では、勝手に警報は出せなかったのだ。

ではなぜ司令部は発令しなかったのか。この”空白の四分”は長い間ナゾのままだった。

1997年(昭和52)、司令部付き情報将校だった美作町出身の土井辰巳さん(故人)の証言によれば「空襲警報発令を」と進言したが、主任参謀は「岡山には行かないよ。」と、聞き入れなかったという。
まもなく岡山県本部から「焼夷弾が落ちている」との連絡が届いたが、すぐに電話線が切れて、「空襲警報発令」は伝達できなかった。

すべての情報が陸軍に統制され、命令なしに警報ボタンを押すと軍法会議ものと教えられていた当時の社会体制と、一人の当直参謀の誤った判断が、無警報の空襲を招き、より被害を大きくしたのである。


 (作者記)
 これは業務上過失の殺人罪ではないか、しかも大量殺人罪と思うが。
 こういう、組織のせい、社会のせい、にするたぐいの話は現在でもある、むしろ多いかもわからない。
   



2000年12月24日