櫨溝橋事件


鴨方町史より
1937年(昭和12年)7月7日北京郊外の櫨溝橋で日本軍夜間演習の終了後、何者かが発砲したのを契機に、日本軍は翌8日未明に中国軍への戦闘攻撃を開始した。

誕生したばかりの近衛文麿内閣は、戦線を拡大し北京・天津・上海を占領し、12月には国民政府の首都であった南京を占領した。

日中前面戦争の開始で、この事件をきっかけに、国内の戦時体制が急速に整備されることになった。

(岡山県知事の訓示・本分のひらかなは原文ではカタカナである)
時局に対する伊藤岡山県知事訓示


今回の事変の勃発に関しては、7月11日政府の声明に依り御承知の如く7月7日夜、我支邦駐屯軍に一部隊が櫨溝橋付近にて演習中に、第二十九軍の理不尽なる不法射撃に端を発しまして、我方よりの事実の承認及謝罪其の他の正当なる要求に応ぜざるのみならず、逐次其の兵力を増加して我部隊に不法なる攻撃を加え来る等の挑戦的行動を敢えて為し、或は平津方面の我在留民に対する忍び得ざる迫害頻発する等協定不履行の不信行為続発し、我和平的解決を解決を全面的に拒否するに至りまして・・・・・・



(国民党軍による発砲と一方的に決めつけ、日本軍の戦線拡大が当然・・・とされている資料。であえてこのページを設けた。作者)



2000年10月09日