2022年8月9日 火曜日 11:00頃
笠岡市大島中 元・笠岡市立大島東小学校 「大島再発見写真展」
山陽新聞に、「大島再発見写真展」の記事が載っていたので、見に行った。
写真左側に見えているのが、元・大島東小。
石組の防波堤が美しい正頭漁港。
正面に小烏公会堂、その奥が、元「大島東小」。
大島東小学校。
創立は不明だが、この場所には明治43年(1910)から〜平成30年(2018)。
学校名は、
大島中尋常小学校→大島中国民学校→(戦後・大島中学校ができたので)大島東小学校。
「百年誌 大島東小学校」昭和50年発行より転記する。
M43・奥浜の新校舎へ全児童を収容。児童数320人、6学級編成。
S3・大島中尋常小学校の校旗を制定した。
S3・明治節制定され第一回祝賀式挙行。
S4・神宮式年遷宮奉拝式挙行。
S6・大津野窯元・神島人造肥料会社・白石島等へ3年以上船舶で旅行。
S7・修学旅行、5年以上岡山勧業博覧会、3年4年玉島、1年2年笠岡町。
S11・二宮尊徳像を建てた、F氏寄贈。
S15・教育勅語50周年記念式挙行。文部省の通達により昭和18年以後修学旅行中止。
S15・紀元2600年記念式典挙行。
S16・大島中国民学校と改称した。初等科6年、高等科2年とした義務教育8年延長したが、実施は延長された。
S17・二宮尊徳像を金属回収として供出した。
S18・二宮尊徳の石像を再建した。
S19・B25爆撃機が度々空襲し、授業を中断することが毎日のように続いた。
S21・斜面流下式コンクリートの製塩施設を造った。
S22・大島中小学校と改称。
S23・教育勅語、詔書等を返還した。
S23・戦災や食糧不足や引き揚げ等の子弟で児童数が増加した。
S25・大島東小学校と改称(新制大島中学校と謝りやすいので)
S26・学級編成を9学級とした。
S26・グランドピアノが寄贈された。
S29・校歌を制定した。
S32・学校給食をD型からC型に改めた。
S33・大島小学校付設大島東幼稚園が新設。
S38・修学旅行、1.2年福山市、3.4.5.6年岡山市。
S38・給食調理の燃料をプロパンガスにした。
S38・秋季遠足、1.2年早崎海岸、3.4年福井山、5年御嶽山。卒業旅行広島・宮島・岩国。
S39・学校給食をC型からB型にした。
S39・春季修学旅行、1.2年笠岡古城山、3.4年倉敷市、5.6年玉野市。
S39・教育用ナショナルテレビを取り付けた。
S40・秋季修学旅行、1.2年遥照山、3.4.5.6年岡山市。
S40・秋季遠足、1.2年大浦神社、3.4年津雲貝塚、5年御嶽山、6年広島・宮島・岩国。
S42・校旗を制定した。
S42・春季修学旅行、1.2年遥照山・金光教、3.4年吉備津神社・備中高松、5.6年水島工業地帯・岡山市。
S42・卒業旅行京都、奈良地方。
S44・笠岡市学校給食センター給食開始、B型(週4日)からA型(週5回)に変えた。
S44・日直・宿直を廃止した。
想い出
明治43年入学・男子
A先生は赴任後間もなく6週間現役として入営され、私たちのクラスへ軍隊からお便りくださった。
津雲貝塚が発見された大正4年の6年生の時、校長に引率されて見学に行きました。
そのとき松枝惣十郎さんが羽織がけで説明してくださったのですが、当時羽織を着ているのは珍しく綴方に書いたところ、校長先生もおもしろいと思ったのか読めといわれ皆の前で読んだ記憶があります。
大正5年入学・男子
木綿の着物に草履だった。
旅行の時は草履の新しいのを作ってもらった。
大正7年入学・男子
廊下に板木(ばんき)があって、始業の合図をし、終わりはチリン、チリンと鐘をふっていた。
服装はみんな着物だったが、1年上のKさんが6年で始めて小倉の洋服を着てこられた。靴は総ゴムだった。
大正15年入学・男子
2年の時にご大典があって、1週間旗行列に参加した。学校の前の海はきれいで、足に小魚がさわって泳いでいた。
K先生は投網が好きでよく投っておられた。
大島中校在職の思い出 N男(大島中国民学校校長)
大島中校に赴任したのは、昭和13年4月であった。
来てみれば南には広々とした海原を臨め、北には緑の山を背負って、風光明媚なところであった。
学校は6学級でこじんまりとしていて、首席訓導は温厚なA君が何かとよく事情を知らせてくれた。
在職中ほとんどが大東亜戦争中で、学校教育も戦時体制のもとに行われたので統制もあり、苦労も多かった。
すべての物資が不足で、食塩なども少なくて海水を代用した時代であった。
学校でも校庭の一部で製塩研究所を設けて、濃塩水を造っていたのを覚えている。
終戦後は、アメリカの進駐軍が、日本の軍国主義や国家主義などを根元から打ち壊すために、あらゆる方面ににらみをきかせて、
小学校にも米兵が視察に何時来るかも知れぬとの情報もあり、校内の整理を心掛けるなど、心配する日々があった。
大島東小の思い出 H男(元大島東小教諭)
一番なつかしいのは校庭の藤棚です。
美しい白い花房が風に揺れる頃、よくこの下で授業をしました。
木が大きかったので一学級の児童が入ることができました。
昭和20年になって疎開が激しくなり、この学区も疎開の児童が相当多くなって、私が受け持っていた4年生などは2人掛の腰掛に3人掛けさせても、まだ足らなくなり、
教壇に本やノートを置いて座って授業したこともあります。
習字の時間には2人掛でないと書けないので、廊下も使用していたほどです。
児童数は一学級80人くらいまでになっていたと思います。
机の間を通って巡視することなど出来ませんでした。
学校で一番困っていたのは台風で、台風が来るたびに海岸の通学路が流失しました。
児童の安全に帰宅させるために、上の農道や裏道を通らせました。
高波のしぶきが間の工場を越えて運動場へ来るのは台風の度ごとでした。
13年近くお世話になり、その上校歌まで私のものを採用していただいて感謝に堪えません。
廊下はピかピカ。
校長室も職員室も、窓はすべて木製。
では「大島再発見写真展」をゆっくりと見て回ります。
大島の名所や歴史が写真と解説で展示されている。
御嶽山(みたけさん)は大島を象徴する山であり、信仰や巡礼や、景勝地でもあり、
多くの写真が展示されていた。
立派な舞台もある。
小学校の学芸会を想い出すなあ。
では校舎から校庭を見よう。
校庭では、今年の春公開された映画「とんび」のロケがあった。
阿部寛や薬師丸ひろ子がいるぞ。
校庭の東側にはヤギが一匹。
学校の東側、県道432号線が通っているが、
まだ、えいちゃんは一度も、この道を運転したことはない。(狭いからね)
いっぽう、南側の県道は優れもの。
正式名「岡山県道47号倉敷長浜笠岡線」。
ツーーリングには特にいい。
展望もいいし、ところどころ展望所もある。
これは笠岡市内で初めて見た。
「大島デマンドバス」と書いてある。
笠岡市でも、走っているのは大島地区だけなんかな?
でも、なんだろう?
デマンドバス。
無料、有料?高い、安い?便利?
コミュニティバスとは違うのだろうな? もっともコミュニティバスの定義もよくしらないけど。
道の駅のヒマワリ
2022年8月16日