2022年7月13日  水曜日   東京都江東区常盤          江東区芭蕉記念館分館     
飯田橋    川越    千住    深川    東京駅    笠岡駅    
 6:04発   7:26〜9:24    11:28〜12:10    12:44〜13:40    14:51   19:25着     
                   



深川八幡宮から歩いて芭蕉記念館へ向かう。


「木場公園」の近く、この付近も木場一帯。橋には「木場の角乗り」。











澄清公園の前。





清澄庭園

(Wikipedia)


清澄庭園(きよすみていえん)は、東京都江東区清澄にある都立庭園。
池の周囲に築山や名石を配置した回遊式林泉庭園で、東京都指定名勝に指定されている。

歴史

この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。
享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。

1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、
三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。
1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。
三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、
1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。
なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。

その後、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失した。
それを受けて1924年(大正13年)、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。
市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。

1973年(昭和48年)に東京都は残る西半分の敷地を購入。
翌年から整備を開始し、1977年(昭和52年)に開放公園(清澄公園)として追加開園した。





江戸資料館は見学したい場所だったが、現在工事中ということだったので諦めた。


「深川江戸資料館」

江東区役所

江戸時代の街並みを細部まで再現!下町情緒溢れる
一歩足を踏み入れると、タイムスリップしたかのような別世界が広がる「深川江戸資料館」。
暖簾や看板、小川や橋など細部にまでこだわった装飾や建築物は一見の価値あり!
長屋の居間に上がることができるほか、小道具などはすべて手で触れることができます。
目に入るものすべてに非日常を感じられる、時空を超えた小旅行へ出かけましょう。











「高橋(たかばし)」をわたる。






高橋(たかばし)から見る小名木川。












そして、ようやく見つけました「芭蕉記念館別分館」。

この場所探しは難しかった。







江東区役所

芭蕉記念館

芭蕉は、延宝8年(1680年)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。
そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。
この草庵は、門人から贈られた芭蕉の株が生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれ、
芭蕉没後、武家屋敷内に取り込まれて保存されましたが、幕末から明治にかけて消失しました。
大正6年(1917年)9月の台風の高潮の後、常盤一丁目から「芭蕉遺愛の石の蛙」(伝)が出土し、
同10年に東京府は、この地を「芭蕉翁古池の跡」と指定しました。
江東区は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981年)4月19日に芭蕉記念館を、
平成7年(1995年)4月6日に隅田川と小名木川に隣接する地に芭蕉記念館分館を開館しました。




「東京都の歴史散歩(上)」  山川出版社 1977年発行

深川芭蕉庵跡

小名木川が隅田川にそそぐ河口の橋が万年橋(まんねんばし)で、
風景が評判の場所だった。
橋の北側に芭蕉庵跡がある。
その前に『古池や・・・』の句碑がある。





別館の屋上に行く。







「街道をゆく29」 司馬遼太郎  朝日新聞社 昭和62年発行  

俳人の芭蕉が、伊賀から江戸に出てきたのは、寛文12年(1672)のことである。

俳号を桃青(とうせい)と定め、延宝8年(1680)居を深川にさだめた。
その年、門人が芭蕉の株をもってきて、深川の居宅に植えたというのである。
当時、深川は低湿地だったから、芭蕉が育つに適していた。
庭もろくにない小さな家に大きな芭蕉の葉がそよいでいるのはめだったにちがいなく、
土地の人がこの家を「芭蕉の家」などと呼んだらしく、要するにこの植物が目印になり、門人たちまでも「芭蕉の庵」などと呼ぶようになった。

このため当主までが、自分を芭蕉と称するようになった。
ときにはながながと芭蕉庵桃青と署名したりした。




芭蕉は隅田川を眺めていた。
























清州橋





清洲橋

(Wikipedia)


関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された。
「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。
震災後の架橋を主導したのは帝都復興院橋梁課長の田中豊であり、永代橋はアメリカ人技術者の助力を得たが、清洲橋は日本人だけで設計、建設した。
再び災害に襲われることを想定して耐久性確保に力を入れ、水底30メートルまで打ち込めるニューマチックケーソンを日本で初導入したほか、
鉄骨コンクリートの基礎を厚さ50センチメートルの御影石で覆い塩害を防いでいる。
イギリス海軍が軍艦用に開発し、国内でも日本海軍向けに川崎造船所が製造していたデュコール鋼(低マンガン鋼)を世界で初めて橋梁に使い、強度を高めた。
当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルク橋の大吊橋をモデルにしている。

2007年に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋や永代橋と共に国の重要文化財に指定された。






「街道をゆく・本所深川」 

 司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行


落語『永代橋』も惨事が背景になっている。
行商人武兵衛さんの家主に、奉行所から、
武兵衛が水死した、すぐひきとりに来いという。
「お前が死んだとよ」
武兵衛は家主につれられて死体置き場にゆくと、役人が、
名札と一両一分入りの財布をかえしてくれた。
「たしかに武兵衛のものか」
「はい、武兵衛のものでございます」
武兵衛は大いになげいて自分の死体に抱きついたものの、やがて
「すると、抱いている俺は誰だ」と首をかしげる。
死んだのは武兵衛の財布をすったスリだった。






そういう芭蕉館分館だった。

場所探しに時間と体力を使ったので本館に行くことはできなかった。











さあ笠岡に帰ろう。





東京〜笠岡




2022年7月27日