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2022年7月11日 月曜日 山形県酒田市二番町 本間家旧本宅 | ||||||||||||||||
酒田発 | ![]() |
丸池 | ![]() |
鉾立展望台 | ![]() |
元滝 | ![]() |
象潟 | ![]() |
矢島 | ![]() |
本荘 | ![]() |
山居倉庫 | ![]() |
酒田(泊) | |
7:40 | 8:30頃 | 9:40頃 | 10:50頃 | 12:00頃 | 13:50 | 14:40 | 16:10頃 | 18:00着 | |||||||||
二日目の予定。
2日目
7月11日(月)
酒田--@丸池様-
-<鳥海ブルーライン(車窓)>-
-A鳥海山五合目・鉾立展望台-
-B元滝伏流水-
-道の駅 象潟-
-<鳥海グリーンライン(車窓)>-
-矢島駅-
-由利高原鉄道「おばこ列車」-
-羽後本荘駅-
-山居倉庫-
-酒田港・夕食-
-酒田(泊)
宿泊:ホテルリッチアンドガーデン酒田
ホテル出発時間が早くなり、7時40分と前日添乗員さんから案内があった。
この時期は昼時間が長いので、
朝の散歩を早くはじめればすむ話。
で、午前5:12にホテルから散歩に出た。
今日もいい天気、鳥海山。
最上川。
まず本間家旧本宅へ向かう。
プリントしてきた地図と、スマホと、街角の看板を適時に見ながら進んだ。
ここが本間家旧本宅。
あの
本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に
の本間様本宅。
酒田市役所”酒田さんぽ”Web
本間家旧本邸
武家造りと商家造りが1つになった珍しい建築様式
1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造したお屋敷で、
書院造りの武家屋敷と本間家が生活した商家造りが一体となった全国的にも珍しい建物です。
その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されてからも、武家造りの建物は特別な時にしか出入りできない場所でした。
商人が幕府巡見使を迎える藩のためにこのようなお屋敷を建造して献上するのは珍しいこと。
本間家の繁栄ぶりをうかがい知ることができます。
※幕府巡見使…将軍の代替りごとに特派された役人
※書院造り…平安時代の公家住宅の寝殿造りを基とし、近世初頭に確立をみた武家住宅
建物は公開されているが、早朝のため不可能。
外側からじっくりとみさせていただく。
酒田市役所”酒田さんぽ”Web
本間家旧本邸
本間家を学ぶことは酒田を知ること《その2》
1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造した、旗本二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。
その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されたのち、
1949(昭和24)年から1976(昭和51)年までは中央公民館、1982(昭和57)年からは観光施設として開邸公開しています。
桟瓦葺平屋書院造りの武家屋敷の武家造りと商家造りが一体となっている珍しい建築様式です。
また、道路を挟んである別館「お店(たな)」では、帳場や度量衡、行灯等の灯かり、台所用品などを展示しながらお土産品も販売しています。
こちらが、
また、道路を挟んである別館「お店(たな)」では、帳場や度量衡、行灯等の灯かり、台所用品などを展示しながらお土産品も販売しています。
「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行
本間光丘の登用
本間家は明治2年に、小作米31.000俵をもって、日本一の大地主といわれた。
光丘(1732〜1801)は本間家の3代目にあたり、
それ以前は酒田の一問屋商人として、資力をのばしつつあったが、地主としては光丘の代にはじまっている。
光丘は明和4年(1767)庄内藩の藩政に参与することになった。
「山形県の歴史」 誉田・横山共著 山川出版社 昭和45年発行
地主王国
地主の系譜はいくつかの類型にわけられるが、日本一の大地主として有名な、酒田の本間家の発達過程をみることにしよう。
同家は元禄頃、商業と海運業をいとなみ、18世紀中ごろの庄内藩財政窮乏には酒田36人衆中、最高の合力金をだしている。
近代地主の基盤ができたのは、三代光丘の時代で、一代で一万俵以上集積した。
その後、幕末まで庄内から秋田まで三万俵の年貢米を収納するに至っている。
本県全体としては明治20年代から30年代において大地主の成長が決定的であった。
大地主の系譜は江戸時代に土台を築いたものが極めて多い。
日本一の大地主として有名な、酒田の本間家は幕末には庄内一円から秋田にわたり、31.000俵の年貢米を収納するにいたっている。
明治以後は土地購入は消極的になり、近代地主とことなる。
町名にも「光丘」が残り、
日本海側の砂丘対策では、今も感謝の念で語り継がれているようだ。
旧鐙屋(きゅうあぶみや)
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』
2022年7月22日