2022年7月11日     月曜日   山形県酒田市南新町  日和山公園                
酒田発   丸池    鉾立展望台   元滝    象潟   矢島 本荘 山居倉庫   酒田(泊) 
7:40    8:30頃    9:40頃    10:50頃    12:00頃     13:50   14:40     16:10頃   18:00着 
                     



日和山公園の入口に建つ常夜灯。





(酒田市HP)

文化10年(1813年)酒田に寄港する北国廻船の航海安全を祈願して建てられました。

高さ約3メートル、酒田港繁栄のシンボルとして保存されています。











酒田のにぎわい






「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行


すでに、戦国時代の終わりごろ、酒田港が日本海有数の港であったことは、なりよりも36人衆の伝統がしめしている。
北方海運の廻船問屋、蔵米、材木輸送などの豪商による自治的性格は、幕藩体制が進展すると後退を余儀なくされた。
しかし、酒田の有力商人からなる36人衆の名目的な格式は明治まで継続した。

酒田が近世期を通して比較的活気があったのは、国津でなく、諸国往還之津といわれるところにもあった。
つまり、最上川流域は、幕府の天領をはじめ、多数の諸藩に分割統治されていたので、
その川口の酒田は、入会支配的な側面をもっていたのである。
酒田港の物資の集散が急激に多くなったのは、寛文6年(1672)出羽幕領の年貢米(城米という)を西廻りで江戸へ輸送するようになってからである。
西廻りの整備によって
西国商船の北国への進出が急激に増えたのである。

天和年間(1681〜1683)の記録によると、
酒田港に入る船数は春から9月までに2.500〜3.000艘あまり。
一日平均13〜14艘の船が停泊するという繁盛ぶりであった。

上方の商品は、
播磨の塩、大坂・堺・伊勢の木綿類、出雲の鉄、美濃の茶、南部・津軽・秋田の木材、松前の干魚。
移出品は、
庄内米、大豆、雑穀となっている。

酒田には幕府の米置き場がつくられた。
城米を江戸に廻送するにさいし、海船をまつため、いったん保管したのである。
河村瑞賢の建議により江戸直廻しが実施されたのである。
最上川諸藩(山形・米沢・新庄・天童・上山など)が酒田に米蔵を設けた。




酒田市役所”酒田さんぽ”Web

北前船で栄えた湊町 酒田

江戸時代、酒田をはじめとする日本海の港や北海道の港から江戸や大阪に、米や魚、特産物などが船で運ばれていました。
船は津軽海峡を通り江戸へ向かう東廻り航路と
瀬戸内海を通って大阪、江戸へ向かう西廻りの航路があり、
西廻りの航路を走る船を北前船と呼ぶようになりました。

東廻りの航路では太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らって進む必要があるため、
西廻りの航路の方が荷物を安く運べ盛んに利用され
、酒田は北前船の寄港地として「日本の中心!?」と言われるほど繁栄した歴史が随所に残っています。
2018年9月29日放映の「ブラタモリ」でも取り上げられました!








酒田市役所”酒田さんぽ”Web

「北前船」を見に行こう

北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、
寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。
さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。

また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、
北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能のある船です。

北前船の国内最大1/2スケールの模型船が日和山公園で見ることができます!










北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3〜4ノット(時速5.6〜7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。











「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行


北前船

地乗りと沖乗り
中部瀬戸内の航路は、中世までは陸地沿いの「地乗り」(じのり)が主流であった。
江戸時代になってしだいに「沖乗り」航路が用いられた。
(陸地沿いでなく倉橋島や因島の南側を通る)
(鞆から下津井までは従来どおりで、白石と高島の間を通る)
それまで櫓漕ぎが主流であったのに対して、木綿帆を用いることで帆走能力が向上し、一気に沖合をすすむことも可能となった。


西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。


港町と遊女

主要な港町には例外なく遊女屋があった。
御手洗の場合も、
町の成立とともにその活動が始まり、江戸時代後半にはつねに100名程度の遊女がいて町人口の2割から1割を占めていた。
「船後家(ふなごけ)」の商売。
船に女性を乗せて各地の港を訪ね、商売がうまくいくところに居着くやり方。
あちこちの港町にすばやく遊女屋が成立するわけである。
遊女たちの境遇は、前借り給銀と引き替えに差し出す茶屋奉公人請状の内容通りで、
年季の間はいかなる事情があっても勤めを逃れることはできず、主人の考えひとつでいつどこへ移されても、またどこでどのような病気で果てようとも、何ら異議を唱えられないものであった。







酒田市役所”酒田さんぽ”Web


日和山公園:北前船
国内最大1/2スケールの船模型


お米を酒田港から江戸に運ぶために活躍した千石船。
風を目いっぱい受けられるよう大きな帆が立っていて、日本海の荒波に耐えるため船はドングリ型に。
お米を150トンも積めたそうです。
その千石船を1/2スケールで再現した日和丸が日本海沿岸をかたどった池に浮かべられています。
この日吉丸は現存する模型では国内最大級。

















「日本近代建築大全・東日本篇」 米山勇 

旧酒田灯台

日本最古の木造灯台の一つ
明治27年に起きた庄内地震の翌年建てられたのが、この木造六角の洋式灯台である。
内部は2階。
その上が展望台となっている。
灯台は、大正2年、対岸に移された後、大浜、ついで現在地の日和山公園内に移築された。
モダンな外観の旧酒田灯台。
明かりは灯されないが、港町酒田のシンボルとして町を見守っている。








酒田市役所”酒田さんぽ”Web

日和山公園:常夜灯
北前船、出入港のための灯台

北前船の往来により栄えていた酒田の港で灯台の役割をはたしていた常夜灯。

船頭衆・廻船問屋衆が船の安全を祈願して寄進したそうです。

金毘羅大権現、天照皇大神宮、龍王宮と刻まれ、
西廻り航路紀州・羽州加茂・羽州酒田や高田屋嘉兵衛、酒田の廻船問屋である鐙屋・根上・柿崎などの文字がみえます。
高さは3mにも。

もともとは方角石のあるあずま屋の所に立っていて、港に出入りする船の目印になっていました。
今も夜になると明かりが灯り、当時の様子をうかがい知ることができます。














「文学の散歩道」


歌人が多く訪れている。その記念の碑が多い。

斎藤茂吉、若山牧水、芭蕉や門人など。




















展望広場に向かう。










展望広場の中央に「方角石」。






酒田市役所”酒田さんぽ”Web


日和山公園:方角石
方角確認の重要な石


港に出入りする船頭衆が方角を確認するために見た石で、日時計ともいわれました。
直径71cmの御影石で作られていて、上面には十二支と東西南北の文字が刻まれています。
石が置かれている丘は港と日本海を一望できるので、空模様を見るのに最適の場所。天候や風向き、そして方角石で方位を確認し船出発の基準にしていたそう。
今もこの場所は酒田市内で一番のビュースポット。空が真っ赤に染まる夕陽の時間は写真映え間違いなしです。





展望広場からの展望。









あまり展望はない。

最上川方面。






「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行

最上川の舟運と酒田

戦国時代の終わりごろ、酒田港は日本海有数の港であったことは36人衆の伝統が示している。

自治的な性格は幕藩体制により後退を余儀なくされた。
しかし、酒田の有力商人からなる名目的な格式は明治まで継続した。

かれらの職域は、
殿様参勤のでむかえや、巡見使のとおるさい本陣・脇本陣をつとめる儀礼や、川船差配役や町方御用銭のとりたてという町役人の役目を果たした。

酒田が、近世期をとおして比較的活気があったのは、
多数の諸藩に分割統治されていたので、その河口の酒田は、入会支配的な側面をもっていたのである。

酒田港の物資集散が急激に多くなったのは、出羽幕領の年貢米を西回りで江戸に輸送するようになってからである。(1672)
酒田港へは一日平均13〜14艘の船が停泊するという繁盛ぶりであった。

移入品は、塩・木綿・鉄・茶・木材・干魚であり、
移出品は、米・大豆などの雑穀。

酒田には幕府の米置場がつくられた。
幕領の城米を江戸に回漕するにさいし、海船をまつためいったん保管したのである。




月山と湯殿山。












日和山公園A
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』




2022年7月22日