2022年7月11日     月曜日   秋田県にかほ市象潟町象潟島  蚶満寺                
酒田発   丸池    鉾立展望台   元滝    象潟   矢島 本荘 山居倉庫   酒田(泊) 
7:40    8:30頃    9:40頃    10:50頃    12:00頃     13:50   14:40     16:10頃   18:00着 
                     




岡山県や広島県発だと、東北地方へのパックツアーは数が限られる(しかも募集人員に満たず不成立もあり)が、

東京発なら選ぶのに困るほどの「東北旅行」がある。


その中から、今回のクラブツーリストのこのコースに決めたのは、

行程に「道の駅・象潟」で自由昼食があることだった。

道の駅で自由昼食であれば、50分〜60分の自由時間となる。その時間があれば、じゅうぶん

象潟そして蚶満寺に行くことが出来る






道の駅・象潟から蚶満寺へ向かう。










ローソンで左折すれば、すぐに蚶満寺。










蚶満寺駐車場に着いた。

「おくの細道」や「象潟めぐり」の駐車場を兼ねているようで大きく広い駐車場だった。








文化の大地震と蚶満寺

(Wikipedia)

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、
文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。



『奥の細道』最北の地

(Wikipedia)

元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。
ここで芭蕉は、中国の悲劇の美女西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、

「象潟や 雨に西施が ねぶの花 」

と、紹介した。















「小説十八史略」  陳舜臣 毎日新聞  昭和52年発行

----ひそみにならう----

絶世の美女。その名を西施という。
夫差はどんなに美人でも、道理のわからぬ愚昧な女はきらいであった。
たおやかな賢女。
それが夫差の理想の女性である。
彼は西施に夢中になった。
夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。
片時も離さなかったのである。
西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。
眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。
呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、
眉をひそめるポーズをつくるのが、流行ったという。
「ひそみにならう」という諺がある。
自分にアウカドウカ、まるで考えないで、他人の真似をすること、
つまり猿真似のことをいう。












合歓の花と芭蕉像。












江山水陸(こうざん・すいりく)の風光 数(かず)を尽して、
今 象潟(きさがた)に方寸(ほうすん)を責(せ)む。


酒田の港より東北の方(かた)、 山を越え、
磯(いそ)を伝い、 砂(いさご)を踏みて、 その際(さい)十里、
日影やや傾く頃、 潮風 真砂(まさご)を吹上げ、
雨 朦朧(もうろう)として 鳥海(ちょうかい)の山隠る。













暗中(あんちゅう)に模索(もさく)して 「雨もまた奇(き)なり」とせば、
雨後(うご)の晴色(せいしょく) また頼母敷(たのもしき)と、
蜑(あま)の笘屋(とまや)に膝を入れて、 雨の晴るるを待つ。

その朝(あした) 天好く晴れて、 
朝日はなやかに さし出(い)づる程に、 象潟に舟を浮かぶ。
まず能因島(のういんじま)に舟を寄せて、 
三年幽居の跡を訪(とぶら)い、 向こうの岸に舟を上がれば、
「花の上こぐ」 と詠(よ)まれし桜の老木、西行(さいぎょう)法師の記念(かたみ)を残す。

江上(こうしょう)に御陵(みささぎ)あり。 神功后宮(じんぐう・こうぐう)の御墓(みはか)と云う。
寺を 干満珠寺(かんまんじゅじ)と云う。 
此の所に行幸(みゆき)ありし事 いまだ聞かず。 いかなる事にや。















今日も、鳥海(ちょうかい)の山隠る。








此の寺の方丈(ほうじょう)に座して 簾(すだれ)を捲(ま)けば、 
風景一眼(ふうけい・いちがん)の中(うち)に尽きて、
南に鳥海(ちょうかい) 天を支え、 その影映(かげ・うつ)りて江(え)にあり。
西は有耶無耶(うやむや)の関 路(みち)を限り、
東に堤(つつみ)を築きて 秋田に通(かよ)う道 遥(はる)かに、海
北に構(かま)えて 波打ち入る所を 汐越(しおこし)と云う。

江の縦横(じゅうおう)一里ばかり、 俤(おもかげ)松嶋に通いて又異なり、
松嶋は笑うが如(ごと)く、 象潟(きさがた)は憾(うら)むが如し。
寂しさに悲しみを加えて、 
地勢(ちせい) 魂を悩ますに似たり。




































「秋田県の歴史」  今村義孝  山川出版社  昭和44発行

象潟の景色は古くから世に知られていたようである。
鎌倉時代の歌人西行法師も遊歴の途中に立ち寄っている。
室町時代の著名な連歌師梵灯庵もまた象潟を訪れ、蚶満寺(かんまんじ)に古歌をしるした。
象潟を東の松島の風景と対比するのは松尾芭蕉の「奥の細道」をまつまでもなくさらに古かったわけである。
芭蕉によって象潟の声価がさらにたかまった。
その後も文人墨客のこの地を訪れるものは多かった。
それゆえ、六郷氏も島守をおき島内・潟端の新田開発を禁止するなど、
その維持管理につとめた。
しかし文化元年(1804)滄海桑田の変がおこった。
象潟は陸地となり、
その面影は本荘藩の画工狩野永昌の画いた「象潟図屏風」に見られるだけとなった。





「新・おくのほそ道」 立松和平・俵万智 河出書房新社  2001年発行

象潟
芭蕉が描写しておいたために、
象潟の本来の風景が人々の精神の中に見事に残っている。
言葉の中にしかない風景もある











象潟は陸化して200年余経つ。

九十九島は今も島のような光景がひろがっていた。

景観を守る地域の伝統に強く感動した。





由利高原鉄道・おばこ列車
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』




2022年7月23日