2022年7月11日     月曜日   秋田県にかほ市象潟町象潟島                
酒田発   丸池    鉾立展望台   元滝    象潟   矢島 本荘 山居倉庫   酒田(泊) 
7:40    8:30頃    9:40頃    10:50頃    12:00頃     13:50   14:40     16:10頃   18:00着 
                     



鳥海山と、その長い裾野を見ながらバスは走る。





象潟が近づいてきた。






特急列車がきた。信号待ち。





バスガイドさん、

「すごい特急列車でしたねえ」

「お客さん10人も乗っていなかったですよ」


たぶん、いつもガイドさんはこの時間の特急列車では車内を見ずに言っていると思った。(見ても見なくてもいっしょ)

ガイドさんの言うことに違いはなかった。





バスは、道の駅「象潟・ねむの丘」に着いた。










国道沿い、温泉付きの、大きな道の駅。






道の駅象潟

(Wikipedia)

象潟
ねむの丘


1997年(平成9年)4月11日に道の駅登録、1998年(平成10年)3月28日に開駅した。

2015年(平成27年)1月30日に「圏域の観光拠点センターを構築」を理由に重点道の駅に選定された。
2016年(平成28年)4月には市の観光拠点センター「にかほっと」が施設内にオープンしている。
1999年(平成11年)手づくり郷土賞受賞。

施設
国土交通省の情報施設のほか、農林水産省の新山村振興事業、およびにかほ市により、以下の施設が整備されている。

駐車場
普通車:400台
大型車:18台
国際シンボルマークスペース:4台










ただの「道の駅」でなく「重点道の駅」。

今は合歓の花が満開。






奥の細道を旅する」  日本交通公社 JTB  1996年発行

象潟

6月15日(7月31日)、芭蕉らは小雨の中、酒田をたって浜街道を象潟へ向かった。
当時、象潟は松島と並ぶ名勝で、芭蕉の東北紀行の大きな目的地でもあったのである。
象潟は東西2.2キロ、南北3.3キロの入江で、
九十九島、八十八潟があった。
南東の鳥海山(2.236m)を借景として、風光美をうたわれたのである。









「街道をゆく29」 司馬遼太郎  朝日新聞社 昭和62年発行 


合歓(ねぶ)の花


金浦(このうら)という浜辺の町をすぎるころから、左側の地形が、陸であるのに海であるかのような印象をあたえはじめた。
この”傾向”は、象潟にはいるとはなはだしくなった。
(これが、象潟というものか)
私は道路わきの田畑のあぜ道に入ってみた。
その田畑は道路より高い。
まわりを見わたすと、いくつかの”島”がある。
いずれも黒松におおわれていて、じつに美しい。
島の数は九十九だったという。
象潟九十九島(つくもじま)などともいわれていた。
タテ・ヨコ一里の入江にたくさんの島が浮かんでいたというのは奇勝だったにちがいない。
芭蕉がこの地を去ってから百十五年後の文化元年六月四日、局地的な大地震で大地が盛りあがってしまったのである。
象潟の海の底が二・四メートルも隆起し、陸地になった。

芭蕉は、この象潟にきて、合歓(ねむ)の花を見たらしい。
合歓の木は,日あたりのいい湿地を好んで自生するから、象潟にふさわしい。
夕方になると葉と葉をあわせて閉じ、睡眠運動をする。
このため日本語では眠(ねむ)または眠(ねぶ)の木と言い、
漢語ではその連想がもっと色っぽい。
合歓(ごうかん)という。
合歓とは、男女が共寝をすることである。
この季節は花をつけるころで、花は羽毛に似、白に淡く紅をふくんで、薄命の美女をおもわせる。
つかのまの合歓が薄命を予感させるために、
花はおぼろなほどに美しいのである。
芭蕉は、象潟というどこか悲しみを感じさせる水景に、西施の凄絶なうつくしさと憂いを思いエロティシズムを表現した。

象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花












道の駅の展望台に行く。

鳥海山は山頂に雲。









近くで「地球が丸く見えるね」という声がする。

















西施像の場所に行く。







すこしうつむくのが西施らしい。











雷電為衛門といえば天下無敵の相撲取りで有名だが、

こまめに日記を書いていたことでも知られる。

雷電は陸化した直後に象潟を訪れ、日記は災害を伝える資料にもなっている。






「雷電日記」 小島貞二編 ベースボールマガジン社 1999年発行

「雷電日記」による雷電の足跡は、現在の都道府県でいうならば、
北海道と四国の愛媛・徳島・高知、
九州の熊本・大分・宮崎・鹿児島をのぞいた全土におよんでいる。
歩け歩けの江戸時代の旅。
おどろくべき広範囲にわたる。





文化元年(1804)

文化元年2月、
上州湯川に湯治を願いでたところお許しがでたので、2月19日江戸を出立した。
途中、上州藤岡に巡業相撲に出向き、3月1日に場所を終えた。
同国板鼻の宿では、3日に初日の興行があったが、この宿場町で病死者が出たため、2日間興行だけで終えた。
3月7日川越に着いた。
3月8日初日、12日まで巡業場所を勤めた。
しかし13日はお殿様に法事がある14日まで場所は休場。
15.16日と相撲を取ったが、中入り後に雨が降ったので、以後の取り組みは中止。
再開4日目、5日目と2.200から2.300人もの大入りで繁盛した。
210両もの収益があった。
3月26、27日と秩父の大宮で興行した。
27日に座敷席が落ちてしまい、怪我人が多く出たために、お上から場所差し止め命令が出た。
28日は休みにもかかわらず、多くの群衆が早朝から相撲場に押し寄せてきた。
力士たちを人目でもみようと、宿泊先まで押しかけてきた。
関取衆を見ないうちは、なかなか帰る様子もなく、大いに困ってしまった。
秩父の巡業場所は、雷電がくるという噂で、はじめから大入りを予想する人もいた。
二日目は、4.500〜4.600人もの観客でひしめいた。
そのほとんどが地方からきた客であった。


5月12日、江戸を出立し、奥州仙台に向かう途中
19日、白石に立ちより27日まで逗留した。
毎日、宿泊先の裏庭で稽古をしたが、見物衆の男は庭先で見物させ、女は座敷内で見物させることにした。
5月29日、仙台のご城下に着いた。
塩釜の大社に参宮し、松島を見物し、塩釜に泊まった。
その夜は400人の女郎を集め、飲んだり食ったりの大さわぎ。
30日に仙台に帰った。
6月1日に仙台場所の初日をあけた。
場所は毘沙門様の境内で、宿泊は佐藤屋という旅籠であった。一里半あり、
毎日馬で通った。
6日に1日休み、11日に場所を終えた。
観客は通しでおよそ19.000人にのぼり、木戸銭は150文であった。
銭が山のように積もって困った。
勧進元が150文のうち30文とり、相撲方が120文の取り分とした。


5月26日に山形の城下町に着いた。
興行日数は5日間とし、
場所契約は買い切り50両、木戸銭から4分の上がりを取り、この金額がしめて27両3分であった。
勧進元からあと2日間相撲とってくれというので、買い切り30両、木戸銭4分が相撲方取り分として契約した。
ここでは夜は花火を打ち上げ、男衆は夜通し博打に夢中になっていた。
博打場は、すべて女の壷振りが仕切っていた。
女の壷振りでなければ賭場も開けない有り様であった。
相撲見物だといって、近郷在々から大勢の人々がやって来ていたが、
相撲を見てから博打にふけるのも、彼らの楽しみの大きな目的だったのだ。


7月10日
天童に一泊した。
14日、秋田城下の久保田に着いた。
8月4日まで相撲を取った。
宿泊先は八橋というところで40丁ほど離れていた。
女郎屋に毎夜通うのに、往復の馬代が通しで金二歩ほどかかった。

海辺の村から城下町まで、6〜7里の道を、毎朝、瓜、茄子、西瓜などおよそ60貫の重さの野菜を積んで、早朝6時頃やってきては、9時半にすっかり売りきって帰ってゆく女馬方がいた。
この女はまた、自らも40貫もの野菜を背負って通っていたのである。
馬も女も、いかにもたくましくて強いものだと感心させられた、
彼女は、早朝2時にはすでに、畑の野菜を積み終わっているという。



8月5日に出立し、出羽鶴岡に向かった。
途中、六合(本荘市ふきんか)から本荘を経て塩越(象潟町)へ続く街道沿いの町や村は、
先日の地震のためにことごとく壁が壊れ、家は倒壊し。石地蔵は壊れ、墓石も倒れていた。
塩越に着いたときは、家はすべて倒壊し、寺の杉の木は倒れ、地中深く梢からさかさまに突き刺さっていた。
象潟では、以前訪ねた時は陸地であったところに海水が膝までつかるようになり、
満潮には首筋までつかる海へと変貌していた。
風景も一変し、かつて九十九島といわれた美しい島々の景勝の海が、
今度の地震で隆起してしまい陸地へと変貌してしまった。
美しい小舟が波間を漂い、港町も栄えていたのに、その面影はまったくなく、陸地になってしまっていた。
6月4日夜9時のことだという。
地割れがひどく、そこから水が噴き出て、老人や子どもたち逃げ出すのに右往左往したという。
ほとんどの牛や馬は死んでしまった。
また象潟から酒田までの海岸沿いの街道は、地割れや崖崩れのため切れぎれに寸断されているという。
その酒田では、三千の蔵が倒壊しているという。
また酒田の町いたるところに地割れが生じ、北側の町は三尺あまりも隆起し、断層が生じているという。
鳥海山は、地震が起こった夜から山火事が猛威をふるい、崖崩れは頻繁に起こった




8月7日鶴岡着。
10日初日、20日場所を終える。
鶴岡では、晴天8日の興行で、場所を通して11.500人余の観客がつめかけた。
ここから仙台へ移動したが、途中国境の尿前越や銀山越えという峠を越えた。







象潟A蚶満寺
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』




2022年7月23日