2022年7月10日  日曜日   東京都千代田区外神田二丁目  神田明神            
  東京駅    米沢    羽黒山(五重塔・三神合祭殿)        酒田(泊)     
  8:56発    11:04着    14:00〜15:42        18:33着     
               



ビルの谷間から神田明神と坂道が見えた。


ということは、

この場所が「明神下」になるのだろうか?








銭形平次親分が住んでいたのは、ここら辺なんだな。






「街道を行く・神田界隈」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行


銭形平次



ここでいそいで言っておかなければならないが、
実際の江戸時代の目明しというのは、
半七や平次のようないい人たちではなく、いわば半悪党というべき存在だった。


幕府の町奉行は、正規職員として与力と同心をもっているにすぎなかった。
現実には手が足りないために、同心が、非公認の手下をつかっていた。
それが目明しだった。御用聞き、岡引ともいう。


給料まで出ないから、”親分”とよばれるこの連中は、たいてい料理屋や寄席,鮨屋などを持っていた。
チップと賄賂で生きており、幕府の頭痛のたねだった。





「男坂」を登る。









男坂を登ったところ。












神田明神

(東京観光財団)


1300年の間、ビジネスの街で東京を守り続ける神社

「神田明神」は730年に現在の大手町近くに建立され、江戸時代に現在の場所に移り、徳川家康も参拝していたと伝えられています。
秋葉原に近いことから、パソコンやスマホに対応したIT用のお守り「IT情報安全守護」を扱うなど、常に時代や町を見守り続けています。



1300年の歴史を持つ神社は、時代に根ざしたお守りも扱います
日本三大祭の一つ「神田祭」は、奇数年の5月に開催されます


神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など、108の町々の総氏神である「神田明神」。
豊穣や縁結びの神とされる大黒天、漁業と商売の神様・恵比寿、平将門が祀られ、商売繁昌、縁結び、開運を祈願する人々で賑わいます。



奇数年の5月には、日本三大祭の一つ「神田祭」が開催されます。
日本橋や大手町など東京の中心エリアを含む30キロメートルにわたり、数千人の大行列が巡行します。
また、秋葉原が、神輿と担ぎ手、観衆で埋め尽くされる様子も壮観です。












神田明神

(Wikipedia)


神田祭を行う神社として知られる。

神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。

旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。





御神殿










髄神門








「街道を行く・神田界隈」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行


神田明神の祭は、京の祇園祭、大阪の天神祭とならんで三大祭といわれるが、
威勢のよさでは比類がない。

「江戸っ子というのは・・・ただ、その・・・威勢がいいってだけのものでございますな」
古今亭志ん生が『祇園祭』のマクラで、いきなりそういうのである。

この噺では、江戸っ子が京見物をする。
逗留先で京都の番頭と、お国自慢のやりとりをするのである。

江戸っ子のほうは、
京なんざ寺ばかりで陰気で仕様がねえといい、

京都のほうは、
江戸はあんた、犬の糞だらけどすがな、

といってたがいにらちもない。

やがて祭の自慢になる。
京都は祇園祭ほど上品なものはない、といえば、江戸っ子はやりかえして
神田祭を活写し、神田囃子を口でやってしだいに相手を圧倒する。

志ん生は口一つで鉦、太鼓、笛、かけ声を入りまぜ、雷鳴と怒涛を一挙に擬声化する。

















「文化交流館」



















「昌平坂」を下る。









こちら「相生坂」。










湯島聖堂の正門。





”史跡・湯島聖堂”



徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。
これが現在の湯島聖堂の始まりです。
その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、
林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。

ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、
両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。

このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。

大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。
この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と椛蝸ム組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。

この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。









「大江戸発見散歩」   松本こーせい  アーク出版  2002年発行

湯島聖堂

築地塀と木立の繁みが続く湯島聖堂。
元禄3年に上野から現地へ移した。
以後幕府教学の中心地となった。
寛政9年には昌平坂学問所(昌平黌)を開き、旗本や藩士の子弟が学んだ。
聖堂は関東大震災で焼失したため、昭和10年に鉄筋コンクリートで再建された。





次は駿河台方面に向かう。






ニコライ堂
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』



2022年7月21日