2022年7月10日  日曜日   東京都文京区湯島3丁目  「湯島天神」           
  東京駅    米沢    羽黒山(五重塔・三神合祭殿)        酒田(泊)     
  8:56発    11:04着    14:00〜15:42        18:33着     
               



前に坂道が見えてきた。

あれが湯島天神の「男坂」だ。(きっと)






すると石段に標識があった。


「天神石坂(天神男坂)」

三十八段の石段坂である。

別名は天神男坂。

すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に対して男坂という。











境内に登った。









すると、このゆるやかな坂が「女坂」なのだろう。










湯島天神の拝殿。






女系図


湯島天神に来たわけは

泉鏡花の小説『婦系図』は読んだことはない、

山本富士子と鶴田浩二の映画も見たことはない。

もちろん水谷八重子のお芝居もまた見ていない。



しかし、この歌はよく知っている。


湯島通れば思い出す
お蔦 主税の心意気
知るや白梅 玉垣に
のこる二人の 影法師


「湯島の白梅」

唄:藤原亮子・小畑 実。



唄の舞台にやってきた。











湯島の”玉垣”。








湯島の”白梅”。








「大江戸発見散歩」   松本こーせい  アーク出版  2002年発行

湯島


切通坂、
本郷に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社校正係の帰りに歩いて帰った道である。
「二晩おきに夜の一時頃に切通しの坂を上りしも--勤めなければかな  啄木」
高台に湯島天神が見え、崖面の石垣に沿ってなだらかな女坂と急な男坂がある。
常夜灯と梅の木が配され、しっとりとした情感を醸し出している。
湯島天神の境内には約300本の白梅があり、泉鏡花の小説『女系図』のお蔦、主税の別れの舞台となった湯島の白梅を偲ばせる。

境内を出る際に、注目してほしいのが正面の銅製鳥居だ。
1667年の建立で、下脚部に唐獅子の装飾が施されている珍しい鳥居だ。
正面の鳥居からは一直線に参道が延びている。
活気溢れる明るい通りで、事務所や商店、マンションに混じって、多くのラブホテルが点在している。
ちょっと不思議な生活空間になっている。
江戸時代、男坂下や鳥居前は門前町で、江戸屈指の盛り場を形成していた。
『女系図』のお蔦も湯島の芸者だ。













湯島天神の銅の鳥居。












湯島天神のHPから

湯島天神


湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進した。

近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。

また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。
文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。

泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極めた。
また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作った餅を神供に備え、氏子へも同様の餅を配った。
境内には売薬香具見世・楊弓場があり、宮芝居が数度行われている。
また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。





筆塚。









境内図。







境内の様子。

















湯島天神の塀。






次は神田明神に行く。






神田明神
クラブツーリズム 『出羽三山と秘境・鳥海の絶景3日間』



2022年7月21日