2022年12月19日   月曜日        山口県萩市堀内  ”重伝建”堀内地区
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5:46    6:29 ・7:03 ひかり  8:38    10:00頃    10:59〜11:36    12:20頃   13:38〜14:05    14:52〜15:54       18:01 こだま  20:22 
               







萩市観光協会公式サイト

旧益田家物見矢倉

北の総門の見張り台も兼ねた武器を収納した矢倉
高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物。
武器を収納する倉を矢倉といい、
天井が高く見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれていました。
北の総門からの人の出入りを見張る“隠密対策”としての機能があり、
平安古の総門には児玉家、中の総門には大野毛利家の隅矢倉があります。

毛利輝元は、永代家老として益田氏を優遇したといわれます。
幕末の当主 親施(ちかのぶ)は、13代藩主 毛利敬親を助け藩政改革を行いましたが、元治元年(1864)、禁門の変の責任者として切腹させられました。



蛤御門の変

元治元年(1864)七月十九日、長州軍は敗退した。
つづいて第一次の長州征伐となる。

幕府は数十藩の兵を催して長州を包囲し、
このとき長州藩内には保守恭順派と主戦派の争いが起こり、
恭順派は幕軍の要求するままに、益田親施・福原元嶽・国司親相の三家老に自刃を命じた。
徳川総督は降伏の条件が満たされ、大坂へ引き揚げた。


「山口県の歴史」 三坂圭治 山川出版社 昭和46年発行














繁沢家長屋門







萩市観光協会公式サイト

旧繁沢家長屋門
長さ35m、張り出した格子が続く長屋門


繁沢家は、阿川毛利家(7391石余)の分家で萩藩寄組(1094石余)に属し、
給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていました。

建物は、桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけています。



















周布家長屋門









周布家長屋門前から。













ここで御成道へ引き返した。






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2022年12月22日