2021年4月26日  月曜日      呉市    尾道市     
呉市警固屋8丁目  音戸の瀬戸公園(高烏台)             9:29〜11:20    13:23〜14:52     
               


ほら、同じ場所。

駐車場がすでに要塞の跡地。














しかも、この地というか、この跡は”日本遺産”に指定されている。






立派な説明板があるので、それを書き写す。



高烏砲台跡

明治19年(1886)、呉港に鎮守府設置が決まり、陸軍は広島湾と呉軍港を敵艦から守るため、
明治29年(1896)〜36年(1903)にかけて周囲の島や山などに呉要塞(のち広島湾要塞)を建設しました。

山頂に八咫烏神社がある高烏山にちなんだ高烏台にも明治35年に砲台が完成しました。
高烏砲台は広湾から呉湾に進入しようとする敵艦を攻撃するためのものでした。

高烏砲台は実戦に使われることはなく、その後も沈黙したまま大正15年(1926)に廃止されました。
その後、
高烏砲台は海軍に引き継がれ、昭和期に入って高角砲設置されました。

戦後は廃墟となっていましたが、昭和36年に、この一帯は音戸の瀬戸公園として整備されています。






明治の砲台の跡で、

戦前・戦中の高角砲跡。













砲台跡の下に兵舎跡が残っている。














兵舎跡に入ります。














兵舎跡にも説明板が建っている。





書き写します。

旧高烏砲台 兵舎

この建物は、明治29年から陸軍が呉(広島湾)の防護のため砲台を整備した際、
高烏砲台の兵舎として建てられた建物です。
高烏砲台は、軍港として軍事的に重要な施設でもあったので、後に海軍に移管されました。
昭和20年8月の終戦後、兵舎は興廃しましたが外壁は現在も残存しています。
兵舎を含む高烏台砲台に使われている石は、
建物の位置から南西側の公園内の斜面から産出された花崗斑岩であることがわかっています。
この兵舎についての記録は残されておらず、
詳細は不明ですが、明治時代の石造建物としての形態を残しています。















兵器庫も残っている、

蓋をしたのもあるが、このように内部にはいることもできるのもある。









呉市のホームページには次のように紹介されている。

明治34(1901)年旧陸軍が外国艦船の侵入を防ぐために、
標高218mの高烏台に28センチ榴弾砲6門を装備した砲台を築きました。
その砲台基礎や弾薬庫の一部と兵舎跡などが、
100年以上経った今でも立派な外観を保って残されています。(呉市)





音戸の瀬戸公園「高烏台」光田庭園



2021年4月28日