2021年12月23日  木曜日  高知県高知市丸ノ内 高知城              
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6:04   6:50・7:08    8:49〜9:42    10:37〜13:49    14:38〜16:35   16:50〜17:40    20:15(泊)
                         




追手門を入る。




追手門


享和元年(1801)に大規模修復完了。
現存の追手門から現存の天守が望めるのは高知城だけ。

追手筋は日曜市が賑わう。
街路の南側に延長1キロに及び、野菜、日用品はもとより古着、骨董、植木、庭石などが並び、土佐弁のやりとりが交わされる。
よさこい踊りの会場でもある。

「城と城下町」 西日本城郭研究会 メイツ出版社 2011年発行






追手門をはいると銅像が点々とつづく。




まず「板垣死すとも」で有名な板垣退助。












大高坂山に高知城を築城した山内一豊。









その妻、

「山内一豊の妻」。










この人は?

『野村茂久馬翁 吉田茂』 と銘板がある、知らんなあ。







(Wikipedia)

野村 茂久馬は、「土佐の交通王」と呼ばれた実業家。
坂本龍馬先生銅像建設会会長。財団法人板垣会会長。桂浜・坂本龍馬先生銅像の建立責任者。
高知城公園・板垣退助先生銅像の再建責任者。







石垣




石垣

高知城の石垣は、近江の穴太衆によるもの。
雨の多い土地柄を考慮し、崩れにくく排水能力も高い野面積が多く採用されている。

高知城・高知城管理事務所








本丸に着いた。








高知城


築城の名手、百々安行が遠大な計画で造った名城、
山内一豊入城以降土佐一国の治めの城であった。

山内一豊が土佐20万石に封ぜられ、はじめ浦土城に入った。
しかし浦戸は海辺に片寄っていたので新しい城地を探した。
慶長6年(1601)から着工、奉行は百々安行。

築城奉行百々安行は仮小屋に寝泊まりし、自ら鍬をとって人夫同様に働いた。
工事現場には一日千人が働いていたが、安行に不足をいう者はなかったという。
このころの手当ては米7合と味噌代として若干の銭が与えられた。


「日本名城の旅」  井上宗和著 ゼンリン 2001年発行








川の水流を変える工事をし、大高坂山にさらに盛土をしその高さを45mまで上げた。
着工2年後には主要部分が完成。

享保12年(1727)城下町の大火で五層の天守閣は焼失してしまった。

寛延元年(1748)再建された。現在も残る天守閣である。



「日本名城の旅」  井上宗和著 ゼンリン 2001年発行






山内家は約270年間世襲して明治維新を迎えた。
「幕末の四賢侯」の一人に数えられた15代藩主容堂は、大政奉還を成就させたことでよく知られている。

また高知は幕末から明治にかけて、
坂本竜馬・中岡慎太郎・武市瑞山・後藤象二郎・板垣退助など数多くの傑出した人物を輩出し、日本の指導的立場にあった。

「日本の城下町10四国」 ぎょうせい 1981年発行







大手門を出て、大手筋に行く。










大手筋は、

「よさこい踊り」や「日曜朝市」の観光地。











食事場所の「ひろめ市場」。












高知図書館。













物理学者・随筆家の寺田虎彦像。




(寺田寅彦記念室Web)

物理学者、文学者。物理学者としては、初期にX線に関する研究を行い、学士院恩賜賞受賞。
また、震災に関する研究も多く、「天災は忘れられたる頃来る」などの言葉で有名。
寅彦の研究はあまり経費をかけないものが多いが、着想は素晴らしく、実証を重んじた。

文学者としては、主に随筆を執筆。
科学者のまなざしで日常を切り取った随筆の他、「団栗」など叙情性に富んだ優れた小品を残している。








大手前高校j。

寺田寅彦の母校でもある。旧制高知中学。











舗道も楽しい。


クジラ。








オナガドリ。










土佐の闘犬。












土佐の総代表といえば、やはりこの人、”坂本龍馬”。










高知駅〜土佐久礼駅
「JR西日本・四国くるりきっぷ」 (2021.12.23)



2022年1月9日