2021年11月4日 木曜日 兵庫県神戸市中央区多聞通 湊川神社 | ||||||||||||||||
笠岡 | ![]() |
西明石 | ![]() |
須磨浦公園 | ![]() |
須磨寺・須磨 | ![]() |
新長田 | ![]() |
神戸 | ![]() |
三ノ宮 | ![]() |
島本 | ![]() |
笠岡 |
6:13 | 7:56・8:14 | 8:27〜10:09 | 10:30〜11:27 | 11:30〜12:02 | 12:12〜12:43 | 12:48〜13:37 | 14:34〜14:59 | 17:04 |
JR神戸駅のホームに下りた。
神戸駅の西側にある「湊川神社」が目的地。
神戸駅構内。
駅舎と駅前。
神社が近いのでちらほら、七五三の姿が見える。
正面に「湊川神社」。
ここが「表神門」。
表神門ふきんの七五三参りの人たち。
「御本殿」。
御本殿前から見る境内。
「楠本稲荷神社」。
境内の楠。
「嗚呼忠臣楠子の墓」。
神社内に”墓”。
楠木正成を”忠臣”として世に広めた、水戸黄門の水戸光圀像。
天皇家の忠臣を詠んだ明治天皇。
楠公会館前に「大楠公御一代記」が掲げられている。
英雄であり、軍神であり、忠君であり、家族を思う武将で、
ここでは徹底的に美化された絵物語になっている。
戦前に教育を受けた人は、このまま国史として教えられた。
明治37年版『尋常小学校』〜昭和16年版『初等科国語』に至る国定教科書の中で、
楠木正成は日本歴史上最大の忠臣であり、また英雄であった。
しかし、終戦とともに、彼は栄光の座から一挙にすべり落ちてしまった。
現在、小学校教科書の中に,楠木正成の名を見つけることはむずかしい。
戦争を機に、これほど評価の逆転した人物も少ないであろう。
「日本史探訪8」 角川文庫 昭和58年発行
正成の最後
残る正成勢は、わずか73騎。
この時、まだ落ちていくこともできた。
しかし、正成はあえて最後の場所を求める。
現在の湊川神社あたりである。
鎧を脱いでみると、正成のからだには11ヶ所の切り傷が残っていたという。
元弘元年から数えて、わずか6年。
はなばなしくも短い活躍の生涯であった。
「日本史探訪8」 角川文庫 昭和58年発行
尊氏の大軍をむかえた正成は、延元元年(1336)5月25日、
6時間あまりの激戦ののち、戦死した。
尊氏は京都にはいり、光明天皇をたて、翌々延元3年征夷大将軍に任じられて幕府をひらいた。
その間、後醍醐天皇は、自分が正しい天皇としてゆずらず、皇居を吉野に移して対抗した。
日本に二つの朝廷、すなわち北朝(京都)と南朝(吉野)が並立したのである。
「大阪府の歴史」 藤本篤 山川出版社 昭和44年発行
湊川神社へ来たのは二度目だった。
金浦中学校の修学旅行で訪れた、それ以来の二度目。
修学旅行地として「湊川神社」は、どういう意図があったんだろうなあ。
(修学旅行では、六甲山やメリケン波止場には行ってない)
三宮@生田神社
A
「JR西日本関西どこでもきっぷ」(2021.11.4)
2021年11月8日