2021年11月4日 木曜日   大阪府三島郡島本町桜井  桜井駅跡史跡公園県  
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三宮駅から島本駅へ向かう。
        


島本駅は快速電車は停まらないので、高槻駅で下りて、鈍行列車に乗り換えする。




(JR高槻駅)




島本駅に着いた。











幼いころ、亡き母が愛唱していた歌の舞台にやってきた。




青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か




(2021.11.4 神戸市湊川神社)


『楠公の歌』 落合直文作詞 奥山朝恭作曲、明治36年



正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん
汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ



汝をここより帰さんは 我が私の為ならず
おのれ討死為さんには 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君 仕えまつれよ国の為



共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
またも降りくる五月雨の 大空に聞こゆる時鳥
誰か哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を









JR島本駅。

その島本駅前の左側に接して、桜井駅跡の今は公園があった。










―桜井の訣別―








父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸ともに 御供仕えん死出の旅




「自分は死ぬが、父に代わって天皇様を助け最後まで守りつくすように」と、
よくよく分かるように悟され・・・







南北朝の時代の争乱は、摂河泉の争奪戦ともいわれている。
九州で勢いを盛り返した尊氏、弟の義直は海陸呼応して東上してきた。
くいとめるため出陣した楠木正成は、途中、
桜井の駅(三島郡島本町)において、嫡子正行を河内におくりかえすとき、
最後の教訓をあたえた。

ときに正行は10歳であったという。
この話は「太平記」にのせられたもので、太平洋戦争の敗戦前までは、
小学校の教科書にもとりあげられ、歌にもうたわれて有名であった。

しかし、明治時代の学者から、つくりばなしではないかといわれていた。
その理由は、当時正行は左衛門少尉の官職をもち、成人に達していたはずであること、
このころ正行の書いたものをみると、とても10歳くらいの少年の文字とは思えないこと、等々である。

「大阪府の歴史」 藤本篤  山川出版社 昭和44年発行






島本駅前の桜井駅跡は、静かな小さな森の公園になっている。














「楠公六百年祭記念」は昭和10年、

この頃から昭和20年までの、およそ10年間が楠木正成の全盛期。


忠臣であり、天皇の為に死ぬ。当時の国家にとって理想的な国民像。











大きな記念石碑も建っている。










この場所に来てみて、楠公のことよりも、自分の幼い時の母のことを思い出してしまった。







ともかく、母が歌っていた、その歌の場所に来た。

本日の予定は終わった。

笠岡に帰ろう。








島本駅ホーム。






笠岡駅には午後5時過ぎに着いた。






「関西どこでもきっぷ」笠岡~宇治
「JR西日本関西どこでもきっぷ」(2021.11.5)



2021年11月9日