守屋浩が亡くなった



「僕は泣いちっち」






流行歌は時代を表現したヒット曲が多いが、

時代と変化を併せたヒット曲と言えば

「僕は泣いちっち」以上の曲は無い。






高度経済成長期が始まる変革期に「僕は泣いちっち」は生まれた。


「貧乏人は麦を食え」という首相談話の時代、流行歌は

ひたすら好きな人を思うだけの「別れの一本杉」や

好きな人を思って、リンゴ畑で泣くだけの「お月さん今晩は」だった。







ところが、高度経済成長期になると

戦時中に、「生めよ増やせよ国のため」の子の成人期と重なった。


田舎の成年は働き口を求めて都会に出た。

好きな子のいる東京へ旅立った。
(待つだけ・泣くだけでなく行動した)



その時、若者をせかせるように守屋浩が「僕は泣いちっち」を歌って大ヒットした。






「僕は泣いちっち」がヒットしている頃、

えいちゃんちにテレビは無かった。ラジオで聴いていた。


ラジオの時代の歌手は、

顔は問題外だった。

踊りも、会話も必要なかった。


ただマイクの前でいい声で歌えばよかった。






えいちゃんちにテレビは無かったが、守屋浩がデビューの頃

町の家にはテレビがあった。



テレビで歌う歌手は見栄えが必須条件で、

守屋浩は顔は小さく、脚が長かった。


その後の歌手は、顔も踊りも楽器も話も出来て、歌もうたえなければ

なかなかチャンスがもらえなくなった。





なつかしいなあ、「僕は泣いちっち」。作詞は「黄色いサクランボ」の、浜口庫之助。




僕の恋人 東京へ行っちっち
僕の気持を 知りながら
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
東京がそんなに いいんだろう
僕は泣いちっち 横向いて泣いちっち
淋しい夜は いやだよ
僕も行こう  あの娘の住んでる 東京へ







僕は”泣いちっち”


テレビが家庭に入る前、農村に住む人は方言しか話せなかった。

”泣いちっち”の”ちっち”はいったいなんだろう?


でも今は、

地方の人も方言を話せなくなった。

着る物、食べる物、道具みんな変わってしまって、

自動的に方言は半減した。






最後にも一つ

守屋浩は笠岡でも歌謡ショーをした。


当時、笠岡市内で一番収容力のある、

笠岡西中学校体育館で守屋浩ショーはあった。


貧しかったえいちゃんは、

見には行けずに、(僕は)・・・泣いちっち

だった。






今立の彼岸花



2020年9月24日