2020年7月2日 木曜日 12:00頃
笠岡市笠岡 古城山
古城山にある”開拓碑”には、どんな碑文が刻まれているのだろう。
碑文を見るため古城山へ向かう。
伏越から登る。
着きました、古城山公園。
古城山にあるる記念碑や歌碑。
画像の右が「開拓碑」。
笠岡市報NO.116 昭和38年9月30日
古城山公園に 満洲開拓殉難碑 秋分の日に除幕式
戦時中に市内大島地区や浅口郡などから満州開拓団として移住し、現地で死んだ人たちの霊を慰める「開拓碑」が、
このほど古城山公園忠魂碑わきにできあがり、秋分の日の9月24日、遺家族や関係者が集まって除幕式がおこなわれました。
この碑は昨年8月に結成された拓友会と満州開拓殉難碑建設委員会(委員長・笠岡市長)によって、
有志に呼びかけ募金した一般寄付や県、市補助金の40万円で建てられたものです。
碑の高さは土台を含め約4m、まわりに石垣をめぐらせ、石は大飛島産を使い、
正面に当時の岡山県知事だった横溝光輝氏の書いた「開拓魂」の三文字が刻まれています。
除幕式のあと、遺族や関係者たちは、当時の開拓団の労苦をしのびながら、慰霊祭をいとなみました。
昭和38年に建立された開拓碑。
その左隣にある石仏は、遅れて建てられたようだ。
こちらは満洲開拓でも、”浩良大島開拓団”の専用慰霊塔。
犠牲者全員の名が彫られている。
満洲移民の旗振りをした「落日燃ゆ」の、広田弘毅首相は戦犯で死刑になったが、
県知事の方は戦後もゆるゆると暮らせたようだ。
碑には、二百数十柱の殉難者がいたことを書かれている。
敗戦により満洲からの殉難者は、その直接原因はほぼロシア兵によるもので
満洲の中国人の多くは、日本人に土地を奪われたにも拘わらず協力的な人が多かった。
全国各地にある満洲開拓団の碑文は、”日本人の苦難”のみ語られ、刻まれている。
日本人は「開拓」者ではあるが、現地人には「侵入」者。
そこを配慮する文字が、一行くらいはあっていいと思う。
古城山から降りた。
2020年7月10日