2020年7月11日   土曜日  10:30頃
笠岡市笠岡





大正時代の大きな出来事に「米騒動」がある。


大正7年(1918)8月、富山県の漁師町に住む”おかか”たちの米騰貴の抗議行動が、

新聞報道され全国に波及していった。


一道三府38県、49市217町231村。参加人数70万人。鎮圧の警察と軍隊が10万人。



今日は、その笠岡の米騒動現場を訪ねて歩く。






日本中に波及した米騒動のピークは8月13日。


笠岡の米騒動も8月13日の夜だった。


岡山県史には簡単な記述があるだけ。



『岡山県史近代U」

8月13日午後12時「群衆約150名其家に押し寄せ、門戸を乱打して之を開かしめたるうえ、店内乱入し素麺・うどんの廉売を強要し、
更に其肥料商を襲い白米の廉売及び金員の寄付を迫り之を承諾」させた。





県史に記述できない理由に、新聞の報道規制があった。

米騒動に驚いた政府は得意の報道規制を命じた。

   
山陽新報8月25日

8月13日から21日まで、なぜ新聞に書かれなかったか。
それは岡山県警察著長名で「掲載一切禁止、掲載したる場合は直ちに差押」禁令を出していたからである。








騒動の始まりは遍照寺の境内。


岡山県社会運動史

大正7年(1918)8月13日夜、
小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。
暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。






笠岡史談

米騒動余聞
笠岡の米騒動では篠井米店襲撃が知られているが、それより前、騒ぎ立てる民衆は、仁王堂・遍照寺の大師堂の前に何百人となく集合していた。
米屋の暴利をつき、あそこへ行け!の野次の中で、土岐其らが演説していた。
それ行け、という声で出陣。








岡山県郡治誌

8月13日午後8時ごろ、
笠岡町民は町内の寺院に集合して、その数600名700名に及び、
警察署長の説諭に服さず、米商7戸を襲って米の廉売を強要して瓦礫を投げて表戸を破壊するなどの暴行をして
午前5時に引き揚げた。










最大の犠牲になったのが、西本町の篠井米店。

今は無い。




(写真の左側の奥側・井戸会館から写す)







岡山県社会運動史

西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。
闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。
笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。
群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。

篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。
そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、
たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。

その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。
怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ、おびえきった篠井の主人は在庫量と廉売の約束をした。











(西本町商店街、写真左に白い駐車マークがあるが、この場所が篠井米店)


笠岡史談

安那氏(77才)
私が21才の時でした。
西本町の篠井米店に、大勢押しかけているという事で、私も見物に行きました。
笠岡でもいつかは騒動があるだろうと、半ば期待のようなものがあったのでしょう。

今から思えば篠井さんも気の毒でした。
ちょうど悪い時に、立派な家を新築したばかりで、群衆のねそみも強かったのかも知れません。
檜の分厚い雨戸を閉めている処へ、二、三人が石を抱えて来て、ドカンドカンと投げつけて、何枚か壊してしまいました。
見物人がだんだん増えて二百人にもなりましたでしょうか。
時の笠岡警察署長が、白服にアゴ紐掛けた巡査を連れて駆けつけてきましたが、専ら低姿勢で、
皆さんお静かに、お静かに願います、と必死で押さえようとしていました。

日頃”天神”と称するヤクザがいて、その晩、群衆の代表なような形で上がり込み、
平身低頭している篠井さんに威丈高になって、文句を言っていました。
腕まくりして群衆に向かい、
”お前らの気に入るようにしてやるから待っとれいょ”と肩をそびやかせていたので、覚えています。











(西本町商店街から井戸会館側を見る。路地の右側が篠井米店があった場所)








写真の印が篠井米店があった場所、現在はNPO法人が利用している。


















笠岡駅東の田中米店。


岡山県社会運動史第三巻

「次はヒゲ田中じゃ」
の一声で、群衆は笠岡駅東側にある田中米店へ向かった。
ところがヒゲ田中主人は頑固で、容易に首を縦に振らなかった。
今度は、「天神」にかわって通称「ばん爺ィ」こと定兼伴次郎という浜仲仕が飛び出し、
店先に置いている米はむろん麦、豆類までかたっぱし桶ですくい路上にばらまき、群衆の歓声を浴びた。




笠岡駅の東側ふきん。







笠岡史談

小見山氏(77才)
私は敷紡に勤めだしたばかりでした。
昼前だと思うが、
「米騒動だ」というので、正門の前に出てみると、駅の東、陸橋の下の辺に、田中という米屋があって、ワァワァと人声がする。

店の中には、沖仲仕のバンジーと称する豪傑がいて、土間にある箱の中から桶にすくっては、表の道路へバァーと振り撒く。
見物人は手を叩くもの、もっとやれいとけしかけるもの、中には女の人なぞが、チョコチョコ走ってきては、米を拾って逃げていく者もある。
どきどきして見ていました。













駅東の田中米店の位置はわからないが、

別の本には寺岡米問屋や内海米店の名もでてくる。





笠岡史談

駅前の寺岡米問屋へ行ったが、米が無かったので、駅前・陸橋近くの内海米店へ向かった。
ここで割り木を投げて入り込み、米をばらまいた。

















岡山県社会運動史第三巻


「つぎは仁王堂の村上じゃ」
と、一夜のうちに数件の米屋が襲われた。








笠岡史談

次に真入川筋の村上店に行ったが、うどん・米少々しかなく、話がついてあばれず、安売りですんだ。
西浜の仲仕は笠岡町東の店々が得意先なので、大したことはしなかった。
(芝勢氏談)






仁王堂の村上米店もわからない。

おそらく上の(↑)通りのどこかにあったのだろう。










神島でも、神島内浦・外浦の両民が日光寺に2.000人集まったとある。


笠岡市史

小田郡神島内村、同外村では、
両村精錬所煙害地被害民が、米価高騰を機として大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、
15日夜9時ごろ日光寺の梵鐘を乱打し、鴨野に集合し、(山陽新報8月19日)
群衆2.000人がこれに加わり喧噪となった。
工場側は数百名を出して警戒、笠岡警察署も現場に急行し、鎮撫に努めたので群衆は解散したと記されている。









戎座


山陽新報8月25日

「笠岡町では8月13日、さっそく白米廉売を始めた。
笠岡町は、町の事業として白米一升20銭にて廉売すること、これが救済基金1万円は、町内有志よりの寄付金をもって充当することに決せり。






8月20日ごろまでに平穏になり、戎座で公演が再開された。




山陽新報8月25日

小田郡笠岡町にては、米騒動も平穏に服し、戎座(のちの大和座)にては、21日より演劇し、
付近の村落にては盛んに盆踊りの行われて活気を呈せり」としている。








写真↑中央に1名映っているが、あの付近に戎座があった。

写真の左右にフェンスが見えるが、右・井笠鉄道、左・国鉄に挟まれ

映画の上映中もレールの音がよく聞こえた。



















笠岡の米騒動は1週間くらいで収束し、

国内の米騒動は1ヶ月間程度で終わった。





しかし

大正デモクラシーと呼ばれる時代に、それを実践したパワーは政治に大きな影響を与えた。

1918年9月21日、寺内正毅内閣は、米騒動の責任をとって総辞職した。

1925年、25歳以上の男子普通選挙法が成立した。
男子たちには「一票」が与えられ、暴力ではなく選挙権で意思表示するのが国民の義務とされた。





なお、国際的にはロシア革命時代で、それに模される面もあったが、日本では政治リーダーや意識はなかった。

これをきっかけに朝鮮から米の移入が増え、その結果米不足になった朝鮮人民は反日感情をさらに高めるようになった。






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2020年7月12日