2020年10月24日  土曜日  9:32〜12:08
高梁市成羽町成羽   



成羽文化センターの「サモトラケのニケ」。






これから成羽の街歩きを始める。









本庁商店街の「勘定所」。














柳丁武家屋敷町並みに行く。


今日は従兄のたみちゃんと二人歩き。





柳丁武家屋敷は本丁武家屋敷に次ぐ各の武士の屋敷。


















総門橋を渡る。














総門橋北側の商店街の大きな商家。













やがて「三村氏居館跡」。

居館は四方を堀で囲まれていた。













「小平園」に行く。


小平(こへい)とは、

”敵の弾に当りましたが死んでもラッパを口から離しませんでした”の木口小平を記念した公園。





つくられた英雄--ふたりのラッパ手の死


明治27年(1894)7月29日、宣戦布告の三日前安城の渡しで清国軍と激しい銃撃戦があり数名が戦死した。
近衛師団の一楽手が一つの挿話を耳にした。
ただちに同僚と軍歌をつくりあげた。
弾丸咽喉を貫けど 熱血気管に溢るれど 喇叭は放たず握りしめ 左手に杖つく村田銃
「安城の渡し」または「喇叭の響」と題されたこの軍歌は一世を風靡した。
9月4日、白神の盛大な葬儀が行われた。地元紙「中国民報」は一人息子を失った白髪の両親への義援金募集のキャンペーンを始めた。

ところが一年たった明治28年8月30日、読売新聞は「喇叭手は白神源次郎に非ずして木口小平なり」と報じた。
勇敢なる喇叭手は白神から木口にかわった。
やがて木口は「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と、小学校の修身の教科書に、国民的英雄として登場したのである。

二人とも貧しい農家の跡取り息子で白神は25才独身。
木口は22才、入営する前に新妻と離婚。実家に帰った彼女は、木口の死後再婚して天寿を全うしているが、
木口の伝記には、「小平が戦死の報を聞き憂悶の極、病を得て間もなく小平の名を呼びつつ其の跡を追うた」とある。


「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊















「トロッコ道」、

ここが終点。




吹屋の吉岡銅山の銅鉱石は、トロッコで成羽まで運ばれた。







トロッコの終点成羽からは、高瀬舟に積み替えられ精錬所まで運ばれた。






成羽は物流の集積地として栄えた町。


周辺からの、米や穀物や木炭などを高瀬舟で積み出した。

上流(備後の東城)からの高瀬舟は成羽ですべて積み替えられた。




陣屋町・成羽A



2020年10月26日