2019年8月1日  木曜日  10:02〜12:08
高梁市備中町




成羽川は広島県東城の北方より流れ、岡山県高梁市で高梁川に合流する。

備中町ではV字渓谷を成し、特に左岸は夫婦岩などの絶壁に接している。その絶壁にかつて銅鉱山のトロッコが走っていた。



成羽川に来たついでに、トロッコ道を偲んでみた。




最初の橋の所、用瀬のトロッコ道。












トロッコ道 備中町史 民俗編 平成4年発行

吹屋に銅が出たので三菱が鉱山を開いた。吉岡鉱山という。

この鉱山に使うコークスや無煙炭を運ぶために成羽から田原を経由して坂本までトロッコ道を作った。


明治40年頃のことである。






長屋橋すぐ近くのトロッコ道。







トロッコ 成羽町史 民俗編 平成3年発行

大正になって吉岡銅山は活況を呈し、田原・坂本間の軌道延長が計画された。

まず、坂本インクラインと幸盛(こうせい)の間に専用道路を開通させた。

ついで、県道の幅を広げ、道路面とレール面とを同じ高さにして敷設した。

成羽から坂本までが全線開通した。



運送には、河田運送店が当たり、精錬用のコークスや石炭・精錬した型銅などが、一人押しのトロッコによって運ばれた。

その結果、田原や成羽は輸送の要地として活気を呈した。

その一方で馬車輸送は衰え、馬方はトロッコ押しなどに転職せざるを得なかった。







二本目の吊橋近くのトロッコ道。











トロッコ道 成羽町史 民俗編 平成3年発行

明治44年には鉱山関係の輸送だけでなく、一般貨物の輸送が許可された。

さらに、大正2年から、一般の人も利用できるようになり、いわゆる「客トロ」が開業した。


トロッコの四方を板で囲い、そのうえに幌をかけ、6人乗りのトロッコを、車夫一人が押して走った。

車に速力がつくと、車夫は走りながら飛び乗った。

田原・成羽間は勾配が緩いので問題ないが、坂本・田原間は勾配が急なので、上りは大変であった。客はトロッコから降りて歩いた。


大正4年から「馬トロ」が始まった。

数台から十数台のトロッコを連結し、馬が引っ張って走った。

田原駅前には飲食店などが繁盛した。








潜水橋付近のトロッコ道。
















トロッコ道 成羽町史 民俗編 平成3年発行



開通以来活況を呈していたトロッコ輸送にも危機が到来した。

昭和3年伯備線が全通し、吉岡銅山は貨物を石蟹駅までトラックで運び、鉄道輸送に切り替えた。


鉱脈の枯渇もあって、吉岡銅山は昭和6年ついに閉山した。

沿線町村と河田運送店は、軌道の存置運動を行い存続を図った。

しかし昭和10年芸備線が開通し、東城からの木炭などが来なくなり、河田運送店も昭和13年経営を廃止した。この時、枕木・レールが取り外された





黒鳥ダム付近のトロッコ道。
















トロッコが営業を止めて、80余年。

トロッコが通った道は成羽町から備中町までの、ほぼ全区間が現在まで変わらず残っている。


吉岡鉱山インクライン跡



2019年8月3日