2019年7月16日 火曜日 8:00頃
笠岡市広浜
えいちゃん幼少の頃、日本は貧しく、食いものも乏しかったが、
そういう状況であっても、これだけは、もうほしゅうないという食べ物が二つあった。
それがママカリと鯨の肉。
ママカリは隣家(漁業)のお婆さんが大きなザルに山盛りで持って来てくれていた。
そのママカリは、焼く、揚げる、酢漬けなどで、朝・昼・晩。そして翌日も朝・昼・晩。
鯨肉は安いので、母が肉の塊を買う。家で鯨肉。学校へ行けば給食で鯨肉。鯨肉・鯨肉・鯨肉と、連続して食べる。
とにかく、食いものがないのでママカリも鯨肉も、無理やり喉に詰め込んでいた。
その鯨肉の鯨が、今年から商業捕鯨が再開された。
なつかしい気はするけど、もう鯨肉はほしゅうないのう。
そう言えば、広浜に「鯨池」があったな。
どうして広浜に”鯨”池なんだろう?
図書館で本を読んでいると、こういう章があった。
瀬戸内海で捕鯨が行われていたかどうかは不明だが、この海域にも鯨がときに海遊してくることがあった。
オランダ東インド会社の医師ケンペルは1691年、4月30日、江戸参府からの帰路、瀬戸内海を航行中に鯨を見かけている。
また、豊後水道に面した愛媛県と大分県には、鯨の墓や供養碑などがかなりの数現存している。
そこには鯨組はなかったが、浜に座礁した鯨や魚の網に掛かった鯨を捕獲し、供養したものが多いという。
捕鯨1 山下渉登 2004年法政大学出版
下記は、えいちゃんの推測なので、信憑性はありません。
広浜が海だった頃、鯨の親子が、この付近に座礁した。
浜に打ち揚げられた鯨を見て、広浜の村人は憐れんで供養した。
そして浜辺に祀り「鯨大明神」として毎年供養しきた。
広浜の「鯨大明神」↓。
その後、広浜の海は新田となり、海は無くなった。(江戸時代初期頃か)
新田に、用水のため池を造ったが、その池の名称は「鯨大明神」に近いので、「鯨池」と命名した。
広浜の鯨池。
鯨大明神付近の百日草。かわいらしい花だ。
鯨大明神ふきんから見る神島方面。
広浜ついでに、日吉神社に行った。
日吉神社前から見る応神山。
手前の田んぼは休耕地が占めるようだ。
この高校生は、方向、時間(8:15)から笠岡工業生。
今週末から夏休みが始まる。
裕ちゃん33回忌
2019年7月16日