2019年7月1日   月曜日   宮城県多賀城市         特別史跡・多賀城跡                  
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5::10頃   6:10頃   9:00頃    9:40頃   11:45発  ANA  14:20着  






「多賀城」は中学か高校の教科書に出て来る。蝦夷を”征夷”する辺境の拠点というイメージがある。

国の特別史跡であり、日本100名城でもある。


是非訪問したいと多賀城市に来たが、なかなか見つからず、城跡や東北学院を何度も回ってやっとたどり着いた。

道は、細道だった。

この付近の道を”奥の細道”と呼ぶそうだ。納得!







「壺碑」の標識により、駐車場へ車を停めた。


やっと多賀城跡にこれた。












多賀城は奈良時代に蝦夷地を征服するため置かれ、平安時代末期に消滅した。

800年頃に坂上田村麻呂が征夷のため、兵とともに来たが既に胆沢(奥州市水沢)が城の役目で、多賀城は兵糧補給基地だったようだ。


その後は陸奥の国府として政庁の役目をしていた。

















外郭南門址
















南門址と築地塀。













あれが「壺碑」。






芭蕉は、覆堂がない状態の壺碑を見ている。








そして

「今眼前に古人の心を閲す。

羈旅の労をわすれて、泪も落るばかり也 .。」


と大きく感涙する。

















多賀城の兵士たち

民家裏手の木陰に「壺の碑」の名で知られた多賀城跡の覆堂がひっそりとたっている。

この地が古代律令国家にとって奥羽二国の最重要政治拠点だった多賀城の遺跡である。

多賀城は、古代律令政府が奥羽両国に造った城柵のひとつだが、単なる防御施設ではなく、

奈良時代には鎮守将軍の治所でであるとともに陸奥国府の所在地であり、平安時代初めに鎮守府が新設の胆沢城に遷された後も国府として重要な機能を果たした。

多賀城は、720年代ごろ創建された。

3人に1人の割で選抜され、他の労役は免除された。兵士は竪穴式住居に住んだ。


日本の町並み2南東北編 昭和57年 第一法規出版






























壺碑から、

「あやめ園」が見える。







下りて行った。









あやめは見頃を終えようとしていた。









「あやめ草足に結ばん草鞋(わらじ)の緒」




2019年7月5日