2019年6月30日 日曜日 山形県山形市霞城町 (霞城公園) 山形城 | |||||||||||||
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5:55〜7:30 | 10:30頃 | 11:10頃 | 11:50頃 | 12:10頃 | 14:46〜16:50 | 18:30着 | |||||||
(朝のお散歩)
山形市では、見てみたい場所があり、雨が降ろうが行くつもりだった。
妻はホテルの大浴場の方がいい、というので一人で雨の中を散歩した。
まず日本100名城の、山形城へ行く。
南大手門から登城する。
南大手門は桝形門。
門から入ると、正面に本丸が見える。
本丸は土塁。
本丸と二の丸の間に「本丸堀」。本丸は一部が石垣造り。
空堀だが、昔は水堀だった。
本丸に天守閣はなく、御殿だけ置かれた。
「本丸一文字門」が公開中。
橋まで行くと橋が通行止めだった。
まだ朝が早いからダメだった。
山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。
最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。
あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。
義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。
最上川水運がととのったのは寛文(1596〜1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人であった。
日本の城下町2東北(二)1981年3月ぎょうせい
山形の開祖ともいえる、初代山形藩主、57万石の最上義光。
なんと当時、国内5番目の大大名だった。
三重の堀で囲まれ、敵陣から城郭が見えなかったので「霞城」と言われた。
三の丸は特に広大で、”霞”と呼ばれたも、うなずける。
これが「二ノ丸東大手門」
見事な桝形。
櫓門、高麗門、に囲まれた桝形門
二ノ丸東大手門から出る。
二の丸を囲む「二の丸堀」。(東側)
堀と並行して奥羽本線が走る。鉄道の為、少し埋められ堀の幅が狭くなっているように見える。
三の丸から、
「二ノ丸東大手門」を見る。
予想していたよりも、大きくて、保存もなされていた山形城跡だった。