2019年6月3日 月曜日 10:58〜12:07
笠岡市笠岡 オール読物 伊東潤「潮待ちの宿・紅色の折り鶴」
オール読物に連載中の、人気作家の小説が最終回を迎えた。
作家・伊東潤先生には、笠岡を舞台にして頂いたお礼と
自分の記憶のため、ページにして残す。
以下、文芸春秋社「オール読物6月号」(2019年)より転記。
江戸時代の笠岡港は、現在の西ノ浜跨線橋ふきんが一番賑やかだったようだ。
その面影は昭和30年代まで残り、
かつて遠方に居た当時、えいちゃんが笠岡出身であることを言うと
笠岡港に行くと、笠岡駅〜西本町の旅館に泊まっていたという内海航路の元船員に何人も会ったことがある。
笠岡の冬は暖かい。古老によると、中国山地によって冬の季節風が遮られるので、瀬戸内海沿岸地方には寒気が流れ込まないからだという。
明治13年(1880)2月、志鶴は35歳になっていた。
「志鶴ちゃん、起きていたかい」
「佐吉親分、朝早くからご苦労さまです」
「最近は足腰が弱ってきて、この坂を上るのもしんどいよ」
さすがの佐吉も70代に差し掛かり、一日五里は歩けたという自慢の脚力も衰えつつあるようだ。
小説に出る「真なべ屋」は伏越の愛宕神社の下ふきんにある。
しかし、えいちゃんはその愛宕神社跡の場所がよくわからない。
たぶん地福寺の上の方にあったのだろう。
(地福寺)
「志鶴ちゃん、もう聞いているかい」
「えっ、何をですか」
「あさひ楼のことだ」
あさひ楼とは、笠岡に唯一残った女郎屋だ。
「先日、官憲がやってきて、たあちゃんに店を閉めろと言ったらしい」
佐吉の横顔は寂しげだった。
使われなくなった白石島へのフェリー乗り場跡。
魚市場と飛び立つ鷺。
魚市場の裏の鷺山。
「俺はもう、昔の佐吉じゃねえ。ここにいる佐吉は蝉の抜け殻のようなもんさ」
10年ほど前に亡くなった真なべ屋のおかみさんのことを思い出し、志鶴も悲しくなった。
「あいつが死んだ時、俺も死んだ。
だから残る生涯は、この町のために尽くそうと思った。
だが、もう体が言うことを聞いてくれねえ、そうなれば役立たずの老人さ」
佐吉とおかみさんは、互いに惹かれ合いながらも決して結ばれることはなかった。
「志鶴ちゃん、幸せを逃したらいけねえ。
待っているもんが来たと思ったら、掴み取るんだ」
真なべ屋近くの地福寺。
志鶴ちゃんが毎日歩いたであろう伏越の道。
サーベルをじゃらじゃらさせながら走ってくるのは、笠岡に置かれた交番所に勤める四等巡査の神田市之進だった。
市之進は、生真面目な性格で何事にも真剣に取り組むので、町の人たちの信頼を得ていた。
かつての佐吉のように、巡回と称して一日に一度は真なべ屋に顔を出すほど、志鶴に好意を持っていた。
市之進の背後から、初老の紳士がついてくる。
「ご無礼つかまつる」
紳士は山高帽を取ると、名札を差し出した。
そこには「京都烏丸 小野組本店 角野茂造」と書かれていた。
「実は、主人の隠居所となりそうな場所を探しておりまて--
この建物を壊して豪壮な隠居所を造りたいと申しております。
主人は土地と合わせて三千円でどうかと」
小説の舞台の伏越界隈と笠神社。
宮地川と石橋。
江戸時代中頃まで、笠岡には大規模な廻船業者が数軒あり、手広く商売を営んでいた。
しかし志鶴が笠岡にやってきた安政元年(1854)頃から、ほかの港との競争が激しくなり、取扱量が半減していた。
港から笠岡へ行く道。
かつては女郎屋が軒を連ね、客引き女の声が朝まで聞こえていた伏越小路も、今は閑散としており、往時の面影はない。
あさひ楼の前に差し掛かると、たあちゃんが店の前にいた。
「あっ志鶴ちゃん」
たあちゃんが足を引きずりながら近寄ってくる。
「たあちゃん、あさひ楼を閉めるんですって」
「そうなのよ。いよいよ、うちの番が来たってことね。
お上からやめろと言われたら抵抗のしようがないわ。文明開化の時代だからね」
たあちゃんが悲しげに空を見上げる。
「志鶴ちゃんはどうするの。
今朝方、お客さんがいらしてたでしょう」
笠岡は小さな町で、噂が広がるのは速い。
伏越港があったふきん、埋立されている。
供養碑は、志鶴ちゃんが笠岡に来る2〜3年前(嘉永5年)に建った。
供養碑近くの古城山。
「潮待ちの宿・紅色の折り鶴」を歩くA
2019年6月4日