2019年5月8日 水曜日 | 甲弩 | ![]() |
小平井 | ||
笠岡市甲弩 茅原基治船長顕彰碑の周辺 |
10:36〜11:30 | 12:00頃 | |||
甲弩の岡田池の南側に、ロシアの子ども800人を救出した陽明丸・茅原船長のお墓がある。
陽明丸がロシアの子どもを助けたのは大正9年(1920)7月〜9月で、その頃
日本はロシア国内に軍隊を派遣していた。
作家・司馬遼太郎は言う、
司馬遼太郎のシベリア出兵の評価は手厳しい。
「前代未聞の?武(とくぶ)といえる。
理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか。
ロシアという「恐怖心の当の相手が、やや引っ込んだように見えたから出ていった」、
「実に恥ずかしい、いかがわしい」ことにはかならなかった。
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書
シベリア出兵は1918年〜1922年つづき、日本軍の無条件撤退で終了した。
その最中で陽明丸は動いた。
茅原船長は明治18年生まれで、
明治32年に金光中学へ進学した。矢掛中学は、その3年後に開校している。
甲弩から中学校となれば、一般論として興譲館になるが
どうゆう事情で金光中学に進学したのだろう?
甲弩から金光まで通学はどの道を通ったのだろうか、
甲弩から矢掛の地蔵峠を越える、
甲弩から吉田〜鴨方小坂へ抜ける、
甲弩から笠岡駅〜金光駅
どれも時間と脚力が必要になる。
(当時は井笠鉄道なし、自転車は普及していない)
陽明丸がロシアの子どもを航海した1920年の状況。
日本が好き放題の行動を取り、ロシア人、中国人、朝鮮人から嫌われ、欧米からは不審の目で見られている。
尼港事件
1920年3月11日、シベリアの尼港の邦人735人が虐殺された。
日本軍は、それを口実に北サハリンを占領した。
ウラジオストクへの共産主義の波及を防ぐため
1920年秋、間島へ派兵した。
間島の主権を有する中国が反対した。
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書
これが笠岡市甲弩にある「茅原基治船長顕彰碑」↑↓。
茅原船長の勇気や思いやりは、間違いなく誇れるが
船主の勝田汽船は営利企業であり、どうゆういきさつで受注したのだろうか?
受注後、大型船を改造したこと、航路や最終目的地も決まらない時点で引き受けたのは、世間相場の数倍高値というメリットがあったのだろう。
(右に三つ墓石が並ぶが、そのどれかが茅原船長のお墓)
シベリア難民の親は、
革命派、貴族のどちらだったのだろう?
難民を助けようとしたのはアメリカ赤十字だが、なぜアメリカなのだろう?
子供たちはイスラエル人だったのだろうか?それであれば、いくらかわかりやすい。
歴史の汚点になった日本のシベリア出兵。
日本軍は士気もモラルも落ちていった。
兵士たち
10月よりの極寒で、凍傷、睡眠、静止も不可能なことがあった。
パルチザンのゲリラ戦に翻弄された。
兵士のモラルは弛み、「北のからゆかさん」は需要が急増した。
「滅法高価だが、明日をも知れぬ我が命だと、兵隊はここに遊びに行く」、将も兵も通い詰めた。
梅毒は軍隊の最大恥辱と、申告しない兵もいた。
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書
防衛大学学長、京大教授だった猪木正道先生は下記、書き残している。
シベリア出兵によって、多い時には7万3000の大軍がシベリアに駐屯し、10億の戦費も無駄使いに終わった。
日本以外にもソビエト・ロシアに武力干渉した国は少なくないが、一番長く居座って、国際的に悪評を受けたのは日本であった。
中公新書「軍国日本の興亡」猪木正道署1995年発行より転記
シベリア出兵から20数年後、
今度は日本が逆に攻められた。
満州・樺太・千島がロシアに攻撃され、兵はシベリアに連れていかれ、国土は失った。いまだ千島列島(南千島)は戻らない。
シベリア出兵から99年、
陽明丸の人道の航海をしてから100年、
歴史の汚点と、人道の船とはどのように関係・関連しているのだろうか?
甲弩神社のツツジ
2019年6月27日