2019年4月2日   火曜日   愛媛県松山市大街道   「たけうち」                  
笠岡    松山市   西条市   新居浜市    四国中央市    笠岡   
5:30   8:56〜11:53    13:28〜13:52    14:25〜14:40    15:31〜15:51    18:20   
                       





母が女学校の生徒だった頃だから、昭和の10年前後のこと

『ろーまん』というパンが、たいそう流行っていたそうだ。


母の通学路には興譲館中学があり、やはり学校の前に『ろーまん』を売るお店があり男子生徒の人気があったという。





その幻のパンを求めて、松山市大街道の「たけうち」に向かった。












「たけうち」は、日本で唯一の『ろーまん』を販売しているお店。








大街道電停から130m先、銀天街に向かって右手にある。

すぐにお店は見えてきた。











母が食べていた『ろーまん』とは。



「倉敷市史6・資料編」より転記。


大原孫三郎が労働理想主義を具体化するため「倉敷労働科学研究所」を設立した。

大正14年、
集団栄養を取り上げ、紡績労働者の所要カロリー決定による給食炊事の献立改善に寄与した。労研饅頭の開発もこの研究の産物であった。
労研饅頭は主食代用品としての栄養価値がきわめて高く、日本人に親しみのある一種の「蒸しパン」で蛋白質・脂質・含水炭素が高かった。

昭和6年、
時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)の一環として労研饅頭普及運動が始まった。
食糧問題解決の国家事業として指定組合を通じて行われた。

昭和11年時の指定組合員は、北海道から九州まで24市2郡3町に及んでいた。
岡山県内では倉敷市・岡山市・津山市・林野町・和気郡・笠岡町に指定組合員がいた。

倉敷市で開発された労研饅頭(ろうまん)は、愛媛県松山市でも普及し今日まで製造販売を続けている。









北海道から九州まで、栄養価が高く、、安価でもあった『ろーまん』。













『ろーまん』のことは、母が亡くなる2ヶ月前に知った。

母の最期の話しになった。



母の話・2015.1.1
 


(井原高等女学校の前にある)コマツ屋ようた。

そこへ買いに行きょうた。一袋へ四つ入とった、5円しょうた。
安ぃんじゃ、あの頃の5円はやしぃ。
弁当を持っていかんもんがエットおろう、そうゆうもんが皆、あれを買うて食びょうた。
蒸しパンのようなもんじゃ。中へ黒い豆がへぇとるだけじゃ。
昼になれば急ぇで買いにいきょうた、よう売りょうた。
「早ぉ行かにゃあのうなる」ゆうて言ぉた。
学校の中でも、だいしょう売りょうたかもわかんらんなあ。

興譲館の下でも、「よう売れる」ゆうてようた。
豆はところどころに入ぇて、味はええようにしてあった。










母の当時の「黒豆」入りの『ろーまん』を4ヶ買った。














一つは、たみちゃんが食べた。

「おいしい」、

「あたためて食べればもっとおいしい」とのコメントだった。











家に帰って、妻が一つ食べた。


美味くも不味くもないようなコメントだった。






二つ残ったのを、えいちゃんが食べた。


温めてから食べた。

母の味がした。

美味しかった。




松山城の桜@A




2019年4月10日