2018年6月30日  土曜日         岩手県盛岡市玉山区渋民            「渋民公園」
ホテル    八幡平    渋民村    角館    田沢湖    能代・大館    羽田    岡山 
 7:41発    8:03    9:30頃   11:50〜13:05    13:50頃   16:08〜 18:05   19:20・20:10     21:30






ふるさとの山に向かひて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな  啄木


渋民村。

















かにかくに渋民村は恋しかり  おもひでの山 おもひでの川  啄木


ここが石川啄木の故郷、岩手県の渋民村。現在は盛岡市。








石川啄木

岩手県の歴史・山川出版より転記する。



石川啄木は本名を一(はじめ)という。渋民村に明治19年2月に生まれ、明治31年盛岡中学にはいり、3年の時にストライキの首謀者の一人となり、学校改革に活躍した。

翌4年退学して上京し、文学に志したが病をえてはたさず、帰盛して詩活動に従う。雑誌「明星」にのせられ、与謝野鉄幹の命名で”啄木”と称するようになった。

明治38年
「あこがれ」をだし、これによって結婚費用を支弁しようとしたが、収入は一文もなく、盛岡に新居をかまえた。

明治39年
渋民村の代用教員をつとめた。

明治40年
校長排除のストライキを指導し免職となり、一家離散。
妹をつれて北海道函館にて小学校の代用教員となり、その後転々と北海道の新聞社を歩き、社会主義運動にひかれ、上京の志おさえがたく
明治41年
上京し
明治42年
朝日新聞社に入社。

明治43年
「一握の砂」を発刊した。

明治45年
4月13日死亡(26才)。6月に「悲しき玩具」刊行となる。








啄木は天才的な詩人でありながら、その人生は破滅的な面があった。

そうではあるが、作品は死後100年に名と共に現代に残している。



(啄木記念館)












啄木記念館から2〜3分、「渋民公園」。














この場所は映画にもなった。

日活映画「北上夜曲」





北上夜曲」は歌もヒットした。



歌うのは、多摩幸子と和田弘とマヒナスターズ。




匂い優しい白百合の 濡れているよなあの瞳

想い出すのは 想い出すのは 北上河原の月












映画「北上夜曲」の、

川地民夫と松原ちぃちゃん。







その同じ場所に座る妻。











やわらかに柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに  啄木



















「新奥の細道」が啄木の歌碑の前を通り、北上川の吊橋を通る。














北上川と岩手山。

岩手県を代表する川と山。






















ここが「渋民公園」の駐車場。

車を停める人もなく、観光飲食店は営業を止めているようだ。






啄木の故郷は市街地化していたが、啄木を偲ぶものは、思い出の山(岩手山)と思い出の川(北上川)、

それに歌碑しかなさそうだ。






流域をたどる歴史2東北編 昭和53年ぎょうせい発行

北上川は奥羽山脈と北上山地の間を南北に流れ石巻湾に流入する。

わが国では第6位の長さで。
律令末期には中流部の平泉を中心に奥州藤原氏が黄金文化を形成した。

近世には南部藩と伊達藩の江戸廻米の輸送路となって経済の動脈を果たした。

詩情豊かであり、詩人を多数輩出した。








「渋民公園」から「小岩井農場」へ向かった。

途中、工事の為う回路道になったが、

完璧に生活道路に迷い込み、そこから脱出にエネルギーを消耗してしまった。


残念ながら「小岩井農場」は中止して、角館に向かった。








つぎ・角館   



2018年7月4日