2018年6月29日 金曜日 青森県青森市 | ||||||||||
乙女の像 | ![]() |
奥入瀬 | ![]() |
八甲田 | ![]() |
小坂 | ![]() |
後生掛 | ![]() |
八幡平![]() |
8:00頃 | 9:08〜9:45 | 10:48 | 12:47〜13:45 | 15:28〜16:07 | 16:20着 |
奥入瀬から国道103号線を八甲田ロープウェイに向かって走る。
奥入瀬から40分ほど走ると、山中のブナ林がつづいた。
行けども行けどもブナ林の道だった。
新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」は、こうゆう山の、冬の雪道でおこったと、事件を自己流に彷彿した。
八甲田山の遭難
日本の軍部は、対ロシア戦争の準備を進め、第八師団も訓練を行った。
寒冷地である満州での戦闘を予想し、青森の第5連隊と弘前の第31連隊に明治35年1月に厳寒期の耐寒訓練のため、八甲田山の雪中行軍を命じた。
1月23日、
青森を出発した第5連隊第二大隊の山口大隊長以下210名は一泊二日の予定で田代をめざした。
しかし、厳寒の中で案内人をつけずに出発して道に迷い、装備も不十分であったこともあり遭難し、救出後の死亡者を含め199人が凍死した。
最初に発見されたのは直立していた後藤房之助伍長であった。
その後、各地で遭難者や生存者が発見された。
生き残ったものも、凍傷のため肢体を失ったりした。
のちに後藤伍長の立像が、軍人らの拠金により遭難地の近くに建てられた。
なお、
同時期に弘前の第31連隊40人の一隊は案内人をつけ、弘前から八甲田山をこえ、青森までの雪中行軍に成功した。
(「青森県の歴史」山川出版2000年発行より転記)
八甲田山の遭難
捜索方法
捜索は、生存者の証言と行軍計画を参照して行軍ルートを割出し、
そのルートを重点として、横幅30m(およそ30人一列)になって、それぞれが所持する長さ10m程の竹棒を雪中に突き刺しながら前進し、
少しでも違和感がある手応えを感知するとその下を掘削する方法が採られた。
また、捜索活動初期の頃、北海道から辨開凧次郎らアイヌ人一行を招き、および彼等が所有する猟犬(北海道犬)と共に捜索活動を行い、
遺体発見でかなりの成果を挙げた。
遺体収容
粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕ける。
衣服を剥いだ後、鉄板に載せられ直火にて遺体を解凍し、新しい軍服を着せてから棺に収容して本部まで運搬した。
水中に没した遺体川に流出防止の柵を構築し、そこに引っ掛かった遺体から順次収容して行った。
腐敗がひどく身元がなかなか判明しない遺体もあった。
最後の遺体収容は5月28日であった。
遭難の原因
気象条件
貧弱な装備
指揮系統の混乱
極端な情報不足
認識不足
「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年、供述している。
ウイキペディアより転記
八甲田山は大きな山だった。
途中の傘松峠は標高1.040m。
国道沿いに「地獄沼」。
地獄沼ふきんの硫黄と煙。
そして、ここが「酸ヶ湯温泉」。(すかゆおんせん)
1.000人風呂の大浴場。男女混浴。
(国道に面している)
妻はこの温泉に非常に興味深く、
入りたいような、入りたくないような・・・。
入りたいのは、テレビで何度も見ている温泉。
入りたくないのは、混浴。
・・・・結局、入らなかった。
やってきました、着きました。
八甲田ロープウェイ。
ところが!
「運休中」だと
八甲田の山頂散策路をプリントしてもってきたが、役に立たなかった。
特に風も雨もなく、何で「運休中」だろう?
この時、午前10時50分。
八幡平へ行くことにした。
黒石インターから東北自動車道を南下。
「津軽SA」で休憩した。
雲にかくれても、やはり岩木山は存在感が違う!
つぎ・小坂鉱山@明治100年通り
2018年7月3日