2018年3月9日   金曜日    東京都新宿区戸山  陸軍東京第一病院跡         
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地下鉄・東西線で「早稲田」に行く。














早稲田駅に着いた。













早稲田は初めてで、町の絵図看板や標識を慎重に確認しながら歩いた。













穴八幡宮。

高田の馬場流鏑馬で知られる。




この神社の前で左折し、坂道を上り始める。





そこが「箱根山通り」と呼ばれる道。

かつて

箱根山通りの周囲・周辺はすべてが陸軍用地だった。







今日は、父が一命をとりとめた病院を訪ねに来た。

父がいたのは、今からもう80年近い前のことだ。








雨の坂道を登りながら

えいちゃんの胸は少し重苦しくなった。










あれだ、

あの建物が「国立国際医療研究センター病院」だ。











父はこの病院で手術をし

成功したが「45歳までしか生きられない」と宣告を受けた。






当時(昭和15年)、東京陸軍第一病院と言えば、日本の医療機関の最高レベルで

父の場合は、連隊病院から東京へ運び込まれた。


















この父の写真が陸軍東京第一病院。患者と軍医と看護婦さん。

患者は全員、軍の帽子をかぶっている。



脚や腕が無い傷病兵も多い。


父は「45歳までしか生きられない」と宣告されたが、95歳まで生きることが出来た。





これも病院時代の写真、

運動会のように思えるが「皇紀2600年」の祝典と関係もありそうだ。










ところで、

父がいた当時の名残や記念碑が残っているのだろうか?




陸軍軍医学校跡地

皇居の北西部に軍事施設が集中している区域がある。

「戸山ヶ原」で、陸軍軍医学校や軍楽学校などの教育施設や傷病将兵の病院、近衛騎兵連隊や蒲鉾型の陸軍射撃練習場、そして山手戦の外側には陸軍技術本部・陸軍科学研究所等があった。


現在、当時の建物や遺構が残っているのは次の通りである。

学習院女子短期大学構内に旧近衛騎兵連隊の赤煉瓦建物が二棟現存している。

戸山教会の土台は、戸山学校の集会所の土台をそのまま利用して造られたものである。

軍楽隊の屋外ステージ跡が戸山公園内に残っている。

陸軍病院内に通じていたという地下道の出入り口は、石垣の補修に寄り注意して見ないとわからいないようにしてしまった。


柏書房「戦争遺跡の辞典」より転記





このように軍医学校でひとくくり。

ネット検索でも陸軍病院はほぼ皆無。



日本の先端医療も”軍”がからめば、意識して無視されるのだろう。








(いつか来たいと思っていたが)



やっと

父がいた場所に来れた。


なんとなくほっとした。










   
 
柏書房「戦争遺跡の辞典」より
 この地図↓のほぼ全域が陸軍敷地だったことがわかる。









つぎ・東京銀行協会ビルヂング



2018年3月13日