2018年2月3日   土曜日    地福寺     11番町    寄島大浦神社 
浅口市寄島町  寄島郷土資料館  9:53〜10:52     13:04〜13:37     14:44〜15:40
    



岡山県浅口市寄島支所兼中国銀行寄島支店兼寄島町図書館。

”さんこう”の祝賀の縦幕、もうすぐセンバツだ。






この元寄島町役場には、もう一つの施設がある。





それが「寄島郷土資料館」、


漁業や真田やバンコック帽や杜氏と並び、塩田の資料が展示されている。










「寄島町誌」昭和41年発行より転記。




東は早崎港から西は青佐西端に至る2キロに及んだ。

二町歩(2ヘクタール)をもって1番とし6番まであり、その後昭和30年には15番まで増えた。

明治38年、一日七トン貨車20輌を30日間発送し、山陽鉄道との特約トン数に達せしめたと言われ、当時の生産量は松永・味野・山田塩田を凌駕していた。
明治38年専売法が施行され、塩業者は販売から手をひきもっぱら製塩のみ従事することとなった。











「入浜式」

満潮より低く、干潮より高い平らな地面を作り、その上に細かい砂をまき、水圧と毛細管現象によって塩田中の溝から表面に達した海水の水分を蒸発させて、塩の付着した砂を集めて塩を溶かし出す方法で、天保期には全国塩田の90%が入浜式だった。

採集したかん水は、各塩戸とも角型の釜で煮沸蒸留により採塩していた。

昭和13年寄島町片本浜に蒸気利用式丸管機を設置すると同時に、かん水はパイプで工場へ送水し一括製塩することになった。
梅雨明けから盛夏にかけて生産が急上昇する季節には、どの塩戸にも臨時の「寄せ子」をどっと雇い入れ、炎天に作業するさまは壮観でもあった。

夏季は塩田労務者、冬季は酒造りの杜氏として出稼ぎに行くような契約で、毎年就業した者もかなりあった。

昭和29年枝条架式濃縮装置をを併用する方向に進み、生産高も従来の1.8倍を製塩するようになった。














「寄島風土記」昭和61年発行より転記。



天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。







万牙(まんが)
浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。
力と技術を要するので素人には引けない。



塩を撒く
長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。
まんべんに撒くので熟練した技術を要する作業である。





沼井堀り
沼井は約4m平方の桝形でかん水をとるところ。
ろ過がすんだ砂を掘り出して沼井の肩に積む。





海水を入れる
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜いて濃い海水(潮の三合満ちまでは海水の濃度が薄い)を注入する。この樋の抜き差しは油断ができない。
失敗すると塩田に海水が侵入し、隣の塩田にも迷惑をかけるので上浜子が受け持っていた。














一日の作業


万牙を引く。
昼寝をする。
午後2時、浜持ち。寄子が寄板を持って、力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
女、子供の仕事であるが息も絶えだえ、汗が流れる。
気が遠くなるほど塩田は広い。
夏の太陽は容赦なく照りつける。

次に入鍬がつづく。
特殊な鍬で砂を沼井の中に放り込む。
最も体力がいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。

その後に
振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんなく撒く。

つづいて沼井踏が砂を沼井鍬で踏みならす。









灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入鍬は振り鍬に追われる一連の作業は汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。


寄子は大きな杓を持って沼井壺から藻垂れを沼井に汲み上げる。数多い沼井壺を次々に汲み上げる。

浜子は大きな浜たごを担いで中溝の海水を担いで沼井に注ぐ。



その頃鉢山に太陽が沈む。














「塩業の閉鎖」

昭和30年、全国塩田に流下式の採かん方式が採られるや全国の製塩高は急激に上昇した。
必要食糧塩は年間100万トンといわれていた。
工業塩は既に国内塩の半額で200万トン輸入されていた。
加えて、時代の進歩はイオン交換膜によって海水より水分を除き濃縮かん水をつくるまでになり、ついに全国1/3の塩田が姿を消すことになった。
そうして昭和34年11月12日神島・玉島・水島とともに寄島では製塩に終止符がうたれたのである。






従業員400人の寄島塩業は漁業と二大機関産業として貢献した。
第二次大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機を救うにも塩は貴重な資源であった。
今では塩田の跡もない。









大浦神社の豆まきで76歳の男性の方、および女性の方3名に塩田のことを聞いてみた。


「作業しょうるのも見よぅた。
跡はもうない。
写真で見るしかできん。」


とのことで、

尋ねたのは塩田のことだが、話は寄島(三郎島)との通学や作業船のことで盛り上がった。


すでに、当時を知る住民でさえ記憶から消えていくようだった。



つぎ・第21回べいふぁーむ笠岡マラソン大会



2018年2月5日