2017年12月28日    木曜日    12:51〜14:31    
笠岡市笠岡      
           伊東潤〜潮待ちの宿・触書の男〜を歩く  



今日は、雑誌・オール読物「潮待ちの宿」第一作・触書の男(2016年12月号)の登場場所を歩く。

色文字は、
「オール読物」の「潮待ちの宿・触書の男」を転記したもの。



物語は笠神社近くにある「真なべ屋」という宿で、志鶴という奉公人のお話。



笠岡は備中国の南西部にある港町である。

笠岡に集められた天領の米・大豆・塩・綿・煙草・茶などは廻米船などに載せられ、大坂へと回漕されていく。

また大坂と下関を結ぶ船便の停泊港としても使われていた。それゆえ港は、いつも喧騒に包まれていた。










笠岡には、岬のように海に突出した古城山を隔てて二つの港がある。


東にあるのが伏越港で、西にあるのが笠岡港である。

江戸時代中頃までは、大規模な廻船業者が笠岡を本拠にして広く商売を営んでいたが、志鶴が笠岡にやってきた安政元年(1854)には、取扱量が半減していた。

と言うのも、伏越港と笠岡港は、それぞれ宮地川と隅田川という二つの河川の河口に造られているため、湾内に土砂がたまり大船が停泊しにくくなっていたからだ。

しかも、近隣の玉島などの諸港が安価な津出し料で対抗してきたため、安政年間には、港の利用者や働く者も激減していた。











笠岡には多くの旅宿があった。これらの旅宿は総称して「潮待ち宿」と呼ばれた。

この名は、かつて海が荒れる満潮を嫌い、引き潮を待つ船が寄港し、その船手たちが泊まったことに由来する。

志鶴の働く真なべ屋の名は、おかみさんの連れ合いが、笠岡港から四里半ほぼ南にある真鍋島の出身で、そこから取られたという。














笠岡の総氏神である笠神社の参道から少し入った道の先にある真なべ屋は、ちょうど笠岡の二つの港を望める位置にあった。












備中北部の寒村から、南部笠岡の旅宿・真なべ屋に連れていこられた志鶴は、もう十四才になっていた。





小説から予想される場所に立った。


古城山を挟み、今でもかろうじて伏越港と笠岡港の二港が見える。













「あっ志鶴ちゃん」

女郎屋の一つ、あさひ楼の主人のたあちゃんが声をかけてきた。





遊女がいた町は年々跡形が消えている。















「それは、わたしがやるよ。それよりあんたは明日、手習いに行く日だろ」

志鶴がうなずくと、おかみさんは「それなら、早く寝なよ」と言ってくれた。


志鶴が週二回通う「敬業館跡」。







笠岡は教育熱心な土地である。
地元の商人たちによって敬業館という郷学ができ、そこで武士の子弟に教えるような高度な学問を、庶民の青年たちにも教えていた。



創設された頃は四書五経などが中心だったが、今では読み・書き・算盤を教えるようになっていた。








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2017年12月29日