2017年9月28日 木曜日 栃木県佐野市佐野駅前 司馬遼太郎記念碑 | ||||||||||
前橋 | ![]() |
佐野市 | ![]() |
金山城 | ![]() |
高崎駅 | ![]() |
榛名湖 | ![]() |
伊香保温泉 |
9:00発 | 10:30頃 | 13:00頃 | 14:00頃 | 16:00頃 | 16:40着 |
栃木県佐野市は前に関東平野が100kmも太平洋までつづき、
後ろに日光など、下野や上州の山々が控えている。
生前、司馬遼太郎は文芸春秋の巻頭随筆の、そのまた最初に「この国のかたち」という散文を毎号掲載していた。
ある年のある月に・・・1996年に亡くなっているので、21年以上も前の事・・・栃木県佐野市での、自身の出来事を書いている。
その話とは、
司馬遼太郎が終戦まじかに、陸軍佐野戦車隊に福田(本名)少尉として所属していた時の事
予想される九十九里浜や鹿島灘の米軍上陸に対し、迎え撃つ戦車隊が移動中、戦車の前に住民の姿発見時、どのように対処すればよいか上官に質問すると、
即座に「轢き殺し」して進軍するという返事があった。
福田少尉が直接に陸軍に大きな疑問を感じ、司馬遼太郎になるきっかけとなった。
その号の「この国のかたち」を読んだ時、えいちゃん自身も大きな衝撃を受け
何時の時か、その佐野市に立ってみたい気持ちになった。
福田少尉がいた佐野市の戦車隊跡地は、地理に不安があったので
佐野駅前にあるという「この国のかたち」の記念碑まで行くことにした。
下(↓)の茶色と黒の石碑が司馬遼太郎の記念碑。碑文は戦車隊の話ではなかった。
ところで、
司馬遼太郎記念碑の場所をネット検索していると、
「佐野の戦車隊に所属していた旧軍人を調べたが、”ひき殺せ”という会話をした人・見た人・聞いた人はいなかった」という、
「司馬遼太郎の作り話のため、旧陸軍の名誉が傷ついた」という不満のページがいくらかあった。
それはない!
見た人・聞いた人がいないから作り話だとか、名誉が傷ついたというのは、それこそ聞いて呆れる。
そもそも、なぜに戦車隊が関東の奥深い場所にあるのか。
それに
国民に向けた”一億総特攻””一億総玉砕”は作り話というのか、そのことでは軍人の名誉が傷つかないのか。
福田少尉の体験は、その中の一端の話だ。
つぎ・足利学校
2017年10月3日