2017年5月28日   日曜日   13:00頃
笠岡市笠岡




「オール読物」6月号に笠岡を舞台にした小説が載っている。







江戸末期の物語で、

”奥羽越列藩同盟”の主役の一人、または司馬遼太郎の『峠』の主人公。



あの河井継之助が備中松山から大阪に向かう途中、笠岡の宿での物語。







河井継之助が笠岡に立ち寄った史実は、聞いたことも見たこともない。


ストーリーはほぼ全て、作家のフィクションだと思えるが

江戸末期の笠岡の様子を活き活きとえがいている。



以下、

オール読物「追跡者 潮待ちの宿」伊東潤より部分転記。







潮待ちの宿

笠岡の春は、瀬戸内海の潮風と共にやってくる。
潮の香りが街中まで漂ってくると、はるか沖合に真鯛の群れが到来する。それを狙って「鯛しばり網漁」の漁船が漕ぎ出し、時には一度の漁で、千尾以上の真鯛を獲ってきた。
とくに、笠岡から四里半ほど南にある真鍋島の辺りは好漁場で鞆ノ津の船団と張り合うように漁を行っていた。

漁船が真鯛を満載して帰還すると、笠岡の町のそこかしこから笑い声が聞こえてくる。漁師たちは、陽気に戯れ言を言い合い、子供たちのはしゃぐ声が、港の活気をさらに高める。




笠岡区域では金浦が漁業の中心だったが、小説では笠岡になっている。








安政6年、備中松山藩の山田方谷の許に赴き、藩政改革の実際を学んできた。「笠岡から大坂に向かう船便があると聞き、ここまで来たのだ」














愛宕宮は応神山の中腹にある社で、その参道が急峻なため、誰もが伏すように登ったことから、この辺りに伏越という地名が付いたという。

愛宕宮からは瀬戸内海が一望の下に見渡せた。一面に広がる海は縮緬模様のように見える。
菅笠の武士が「眞に絶景だな」とつぶやく。
「長岡藩の河井継之助と申す。ここと違って雪深い地だ」



愛宕宮は地福寺の上に位置していた。

現在の愛宕宮は応神山の山中に埋もれている。

地福寺の墓地のいちばん高いところからの眺めは非常によい。


江戸時代の愛宕宮からの眺めが優れていたことは容易に想像できる。












愛宕宮から真なべ屋のある笠神社方面へとつづく道は、遊女街の伏越小路から続いているため、遊女たちがよく歩いている。
朝の遊女たちは、夜の艶やかな着物と異なり、掃除や洗い物をするための前垂れに手拭いをかぶっている。





伏越の旧遊郭街は10年ほど前の火災以後、急速に面影が消えている。












翌日、継之助が散歩をしたいというので観音鼻に連れていくことにした。
真なべ屋のある伏越の西には、古城山と呼ばれる低い丘が海までせり出している。その南端の崖下は観音鼻と呼ばれ美しい磯が広がっていた。
観音鼻の絶壁には、見事な姿の松が断崖にしがみつくように繁茂し、海に目を転じると、木之子島と呼ばれる小さな岩礁が、独特の風情を醸し出している。
継之助は「よきところだ」と言っては感嘆しきりである。


観音鼻は古城山の麓の海岸線、現在明石産業がある付近。







笠岡湾に島は二つあった。

片島と木之子島(猫すて島)。笠岡湾の眺めはどこから見てもきれいだった。
















真なべ屋から大仙院までは、おかげ街道を通るのが最短距離だが、陣屋の前を通るが嫌なので、
街中の小路や路地を伝っていくことにした。大仙院に着いた志鶴は、その象徴の赤い鐘楼門をくぐった。




「潮待ちの宿・真なべ屋」は、この「北木屋」からアイデアがでたのだろうか?

うどんで人気の北木屋。










「おかみさん、長岡というのは越後国にあるそうですね。小寺塾で習いました」
小寺塾とは、かつて敬業館と呼ばれ、西国で一、二を争う経学の名門だったが、今では諸藩に藩校ができたため塾長の名を取って小寺塾と改め、寺小屋のようなものになっていた。



陣屋や、敬業館や、大仙院も小説に登場する。


現在は杖を手にしての歩行だけに、その場所には行けなかった。(伏越のみだった)









冬になり、枯れ葉が落ちた頃

是非とも愛宕宮跡地に行ってみたい。

そこにはどうゆう眺めがあるのだろう。楽しみ。



なお、作家は(さすがに)ストーリーが上手い!感心する!!面白い!!!





つぎ・北木漁港



2017年5月31日