2017年5月20日  土曜日   11:30頃
笠岡市西大島  大島小学校



新緑に映える見事な生垣。













以前ここに、

警鐘台があった。丸太の先に半鐘が付いていた。















四尋山と御嶽山。















峠越えで寄島に行く県道。

大島小学校の前。













大島小学校の校門から県道、四尋山を見る。

















これが笠岡市立大島小学校。









現在は、どこの学校も児童の安全のため校内に入れない。

遠慮なく入れるのは「運動会」「公民館文化祭」「その他イベント日」に限られる。



大島小学校の場合、公民館文化祭等は現・大島中学校で開催されるので運動会以外に機会はない。











つまり今日を逃すと一年待ち。















今日は大島小学校の運動会。



なぜ、運動会の日と分かるかといえば

なに

開催日はどこも金太郎飴。


昨日、車の中から城見小と大井小の万国旗が見えたので大島小も同じだろうとやってきた。












大島小学校に来た目的は一つ。




「和気清麻呂像」を見に来た。






まず後ろ姿を拝見する。














次に前からお顔を。





じゃーーーーーーん、これが天皇家を守った和気清麻呂。





戦前、

というよりも



昭和15年の皇紀2600年から昭和20年8月までの5年間、日本は神国=天皇崇拝が頂点に達し、

大島村立大島尋常高等小学校には和気清麻呂像が建った。


えいちゃんが知る範囲では富岡小学校にも和気清麻呂像が建った。

富岡小学校のは、昭和16年銅像建立、金属類供出。昭和17年胸像で再建。昭和20年マッカサー指令で廃却。



規模が大きな笠岡男子校には、天皇家の忠臣・大楠公像。金属類供出、再建されず。

笠岡女子校には楠公母子像が建っていた。マッカサー指令で廃却か?











清麻呂像はサイズが予想していたより小さかった。

コンクリート像に着色している。





像は数年前に大島公民館での文化祭で確認したら、

戦後すぐ素封家の人が破棄は忍びないと自宅に隠した。その後個人邸から元どおり学校へということになったが

大島小は既に現在の大島小と統合していたので、西大島の学校に建ったそうだ。


なお像は昭和18年に建っている。









ところで、

清麻呂がなぜ近代に像が建ったかといえば、一にも二にも三にも・・・・・「天皇家」を守った功績。

天皇が人間宣言後、というか終戦即に楠木正成も和気清麻呂も無視または功績を否定された。








学校ではどのように説明しているのだろう?


すると!

おやややや・・・や!!




「治水工事に功績があり」




天皇が神の時代の説明とは違うものであるとはわかるけど、これ↑では他の人のことみたいだ。







それで帰り道、笠岡市図書館に寄って

本では和気清麻呂はどのように書かれているのか見てみた。






小学館「体系・日本の歩み・古代」

称徳女帝は皇太子を定めていなかったので、
独身の女帝の後を誰が継ぐかは、強い緊張をはらむ問題であった。

769年正月、大宰府の主神が宇佐八幡の「道鏡を皇位に即けしめば、天下太平ならむ。」という信託を上奏してきた。

女帝は和気清麻呂を宇佐八幡へ遣わしたが、期待に反し「皇儲(こうちょ)(皇嗣)」を立てよ。」と奏上した。

道鏡は激怒し、女帝は清麻呂を「きたなまろ」と名を変え流罪とした。




岩波書店「日本歴史・古代3」

世襲王朝と、その権力をになう貴族階級が道鏡一族の野心を阻止したものである。

女帝が没後、道鏡は失脚した。





清麻呂に関連事項はこれ以外の記述はない。




戦時中と、戦後と、学校の説明文とそれぞれが別評価。

どうも腑に落ちんなあ。

(神経質になるほどの問題ではないが)











学校ついでに今日の大島小学校。













晴天に恵まれ運動会を楽しむ人たち。



















観覧席の表。





大島小学校は大島東小学校と統合することが決まったいる。何年か先には、更に表示の場所が増えることになる。




つぎ・笠岡市ゆかりの村田諒太選手「WBA世界ミドル級王座決定戦」



2017年5月21日