2017年2月14日   火曜日    福岡県田川市        石炭記念公園  「石炭歴史博物館」
笠岡    福山    小倉    直方    飯塚  〜  新飯塚    田川後藤寺  〜  田川伊田    小倉    岡山(泊) 
 5:59    6:32   8:12    9:19〜11:59     12:17    13:47    14:08    15:58    16:55    18:15
           



石炭歴史博物館は石炭記念公園の中にあり、

公園には二本煙突と竪坑櫓がある。




旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓。








以下、山川出版社「福岡県の歴史」より転記する。


福岡県の炭鉱は筑豊と三池の二大炭田があり、

三池は官営で囚人の苦役として始まり

筑豊は農民の日銭稼ぎから始まった。










月がでたでた〜の「炭坑節」

三池にも炭坑節の碑がある。










三池はその後、三井財閥の炭鉱となった。

筑豊は大小の地場資本の炭鉱が多くあったが、安川・貝島・麻生の三人が生き抜いた。






八幡村は洞海湾に面し、既に鉄道があった。鉄道と石炭が結び八幡製鉄所が決定した。







後方は香春岳。









筑豊の石炭は、坑口から馬の背で最寄りの川岸に運ばれた。

川?(かわひらた)と呼ばれる川舟に積まれ、遠賀川を下り芦屋・若松に運ばれた。

威勢のいい船頭はキリクさんと呼ばれ、女性の憧れの的であった。



筑豊の石炭産出量は、川船のみによることは不可能になった。安川や麻生は自ら鉄道敷設経営に乗り出した。(明治24年着工)

筑豊の炭鉱は全国出炭量の半分を占めることになった。










竪坑は明治末から主流になった。











赤い煙突目あてに行けば 米のまんまが あばれ食い



嫁に行くときゃ 坑夫に行くな ガスがばれたら若後家よ ゴットン


筑豊特有の「納屋制度」があり、人入れ家業の親分と契約していた。










山頭火の歌碑。

















公園には多くの展示物や遺物がある。

櫓のペンキはまだ新しい。
















江戸時代の長屋に似た炭鉱住宅。

















八幡製鉄所や若松港へ石炭を輸送した汽車。













煙突は二本残る。

それで「二本エントツ」と呼ばれている。















発電用にボイラーが目的だったようで、

昭和期になり、無用になったようだ。















田川市の、そして筑豊炭鉱のランドマークの二本煙突。
















五木寛之「青春の門・筑豊編」の世界が広がる。













公園のいちばん高い場所に慰霊塔があった。

朝鮮から半ば強制的に炭鉱労働者となり、亡くなった人の慰霊塔。












戦争中、兵隊にとられ日本人(本土)労働者はいなくなった。
















では炭鉱住宅を見学しよう。












おおっ

びっくり本物の人かと思った!







刺青をした坑夫が多く、

坑内では引火による事故の危険性も高い。


長く日本経済を牽引した石炭産業の労働者。




先述の、えいちゃんの元上司によれば

「政府の斡旋・紹介で(旧エネルギーの石炭から)、(新エネルギーの)石油関連の会社に再就職した」人が多かったそうだ。

その人たちは、筑豊から離れ全国に赴任した。



当時勤務していた建設会社では、

地下鉄や隧道工事に「トンネル一筋」を自称する元炭鉱夫も珍しくなかった。














筑豊の炭鉱は、これまでも景気による浮き沈みを重ねてきた。

しかし28年からの不況は、石炭産業がエネルギー革命の中で危機に立たされたことを意味した。


戦争後の各炭鉱には労組があり、その全国組織の”炭労”は当時最強を誇る組合であった。

筑豊では炭鉱の倒産が相ついだ。

3ヶ月に血を三升六合売ったものもいた。



昭和34年、日本経済は大幅な成長を示し岩戸景気と謳歌したが、筑豊に好景気はおとずれなかった。
大手炭鉱経営者は、昭和38年まで110.000人の首切りが必要であることを明らかにした。




筑豊の象徴であった三角錐のボタ山も崩れ、くずされて工場に学校に住宅地に変わっていく。

筑豊に生きた人々は歯ぎしりしている。






残念ながら、博物館は再オープンに備え休館中だった。






ここには石炭の歴史や、

山本作兵衛の絵画が多く展示されている。



つぎ・田川伊田商店街



2017年2月20日