2016年10月20日   木曜日        広島県廿日市市宮島町              近代化遺産 室浜砲台
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今から75年前の国難に際し、

何の準備もせずに”めくらヘビに怖じず”同様に戦争を始め、当然の結果として負けてしまった日本。











それは昭和だけの話で




有史以来の国難の際、為政者も国民も冷静な目で周到な準備を行ってきた。




1300年前・・・大唐帝国に備え、玄海灘や瀬戸内地方に城を築いた。

800年前・・・モンゴルに備え、九州に石塁を築いた。

150年前・・・欧米に備え、全土にお台場を築いた。

120年前・・・ロシアに備え、西日本に要塞を築いた。














ここ広島県宮島には軍都広島を、

ロシア艦隊から守るため砲台が三カ所設置された。








今日、えいちゃんが訪れたのは「室浜砲台」の跡である。
















明治の指導者は大国ロシアの国力を恐れ、

内政・外交、財政・金融、兵器弾薬等にあらゆる可能性を探って対応尽力し、

かつ、戦争前から戦争終結を探っていた。











有名なフォークソング、

「花はどこへ行ったの」。



花はどこへ行った・・・・ 少女がつんだ・・・少女はどこへ行った・・・ 男へ嫁に行った・・・男はどこへ行った・・・ 兵隊として戦場へ行った・・・兵隊は 死んで墓に行った・・・墓はどこへ行った・・・花で覆われた・・・花はどこへ行った・・・ 少女がつんだ・・・・・・・・・いつになったら わかるのだろう

(繰り返す)











この歌は同じことを繰り返す愚を歌っているが、

日本では、明治の事を繰り返すのでなく

”退化した”昭和であったことが、今の国民として情けない。
















昭和の戦争は「神州不滅(不敗)」とか「大和魂に敵はない」的な、現実を無視した戦であった。

明治の遺跡を見るたびにその事を思い、

なぜにも、こうやすやすと、夜郎自大の国家・国民となり

結果的に惨めな自滅に突き進んだのだろう・・・・と自分に問いかける。






















室浜砲台は明治30年代に設置された。煉瓦と石とコンクリートで造られた頑丈な防御基地。


これは弾薬庫。


















砲台は二つ並び、















一砲台に砲座は二基ある。






















砲は四基あった。

すぐ前は大野海峡であるが、既に砲台の廃止から100年が経ち樹林が覆い繁っている。















「室浜砲台」跡の全容。














砲は最大7km先まで飛んだそうだが、実戦で使われることなく大正時代に廃止された。




















海岸に出てみた。




今は流木があるだけの砂浜。
















これが大野海峡(大野瀬戸)、海峡幅は1km前後。










(古く) 明治の人は軍艦に砲で対応しようとした。

(新しく) 昭和の人は米軍上陸に竹槍で対応しようとした。




この差(退化)はなんだろう、なぜだろう?





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2016年10月22日